第6回首都圏キリスト教大会第1日目の24日、午後6時半から一般大会が開かれ、7月の日本プロテスタント宣教150周年記念大会で実行委員長を務めた峯野龍弘氏(ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会主管牧師)が講演した。峯野氏は、ベトザタの池でイエスが病人をいやした奇跡(ヨハネ5:1〜9)を本文に聖書のメッセージを伝え、「主イエスを信じなさい」「あなたはいやされ、勝利の人生を歩むことができる」と力を込めた。
峯野氏は、38年もの長い間病に苦しんだ人がイエスに「良くなりたいか」と聞かれたときの言葉に注目。「水が動くとき」(7)という箇所からは、この病人が当時の迷信にすがり、みじめな状態におかれていたことを説明した。
また、「入れてくれる人がいない」(7)については、「人間の愛の限界と人のつれなさ、人生のせつなさを表している」と説明。極限の状況の中で人間は、自我と自己中心の心を捨てきることはできないと説いた。
そして、「先に降りて行くのです」(7)と語ったことについては、助けを必要とする弱者がはしに追いやられるという、まさに現代の競争社会ではないか、と訴えた。
そのうえで、「その人物のさけび、嘆きはむなしく地に落ちなかった」と、イエスの救いを強調。イエスの愛に出会う人は、どんな絶望の中にあっても、もう一度希望の火を燃やされ、それが自分ばかりか、他の人さえもいやすことのできる大きな光となると語った。
イエスがあえて病人に「良くなりたいか」(6)と聞いたことについては、「(救いを求める)心の窓を開くための、偉大な動機付けであった」と説明。「イエスの愛はだれにでも、希望を与え、もういっぺん望みを与え、(希望の火を)ますます点火してくださる。そのイエス様が今晩おいでです」と強調した。
イエスの愛について、「細やかでかつ偉大」と表現。「見て」だけでなく「知って」とある通り、「だれも知らない私の悩みに、イエス様は来て、見て、知って、絶望の状態を救うために、ここに主イエス様のアプローチがある」「究極の絶望がそこにあろうと、主イエス様にはどんなことでもおできになる。人にはできないが主にはできる」と力を込めた。
約2000年前に飼い葉おけでお生まれになり、病む者や絶望する者をいやし、十字架にかけられて死んで3日目によみがえられた主イエスは、「いま私たちとともにおられ、今晩ここに私を絶望からときはなってくださいと、ただお一方、イエスのおん愛により頼む方があるなら、主イエス様はその方に解放を与え、マイナスに見えたものが、そののち、多くの人に希望を与え、いやしていくことができる。福音の選奨者として、大きく用いられる人間になるのです」と訴えた。
キリスト者に対しては、「あらゆることにおいて困難があり、困窮状態があろうと、私はだめだと言っていいのでしょうか」「もういっぺん信じてください。そうしてすばらしい主イエス様の、絶望の中から再起させてくださる主イエスの愛を信じて」と訴えた。さらに、悩みと苦しみの渦巻く現代社会にあって、「このイエスのおん愛の中でみごとに、みごとにいやされていく、罪の中から、けがれの中から、過去を引きずるなげきの人生から、主は私たちをみごとにいやして、立ち上がらせてくださる」と強調した。
講演後、聖書のメッセージを聞いてイエス・キリストを信じた、また信仰の決意を新たにした多くの人々が講師の招きに応じてステージに上がり、決心の祈りをささげた。