夫婦の人間関係が大切だといってきたが、それにはもっと多くの理由がある。その一つは、夫婦以外の人間関係は、全部、よそゆきだ、ということだ。親に対しても子に対しても、かなりの程度遠慮もする、気がねもする。ときには敬語も使い、神経も使う。当然だと思う。子どもだって、妻にたのむようには使えない。
しかし妻には遠慮はしない。互いに、自分でできることでもたのみあって、感謝しあうことにしている。もちろんたのんでいいこと、たのんで悪いことくらいは気をつけるが、互いに安心しきってたのみあう。
夫婦はそれこそほんとうの、裸の付き合いで、互いに隠すところがない。そんな付き合いができるのは、夫婦だけだ。
それだから、夫婦の仲に現われる自分が、ほんとうの自分なのだ。裃(かみしも)脱いだほんとうの自分は、妻の前でだけ現われる。短気な者は短気がでるし、わがままなヤツはわがままがでる。人間お互いに、夫婦の間だけは、本音がでていると思うのだがどうだろう。
遠慮や気がねやいい格好をしているうちは、まだよそゆきの段階だ。まだ新婚のホヤホヤか、ウソでかためたニセ夫婦だ。
だから、その裸の付き合いの夫婦の仲で譲りあいができ、ゆるしあいができたら、それがほんとうのよい人間性だということになる。夫を心から敬い、妻を心から愛する。欠点のない人間なんかいないから、腹を立てる理由なんかいっぱいある。
だけど自分が選んだのだから、ゆるしあうのは当然だ。ゆるしあい、包みあって助けあい、長い年月をいっしょに暮らす。そこにほんとうの人間の交わりがあり、安らぎがある。だから夫婦こそが、人間関係の基本なのだ。夫婦の間がらにはウソがきかぬ。ゴマカシがきかぬ。どんなにうまいことを言ってみても、妻の前ではお里が知れる。妻に感心されたらホンモノだ。妻の忠告は耳に痛いが、聞かなければならない。
宗教改革者のルターが言った。「天国が見たければ、よい家庭へ行きなさい。そこが天国に一番近い。地獄が見たかったら、愛していない夫婦を見なさい。そこが地獄に一番近い」と。
あなたの家庭はどちらですか。
(中国新聞 1983年7月25日掲載)
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植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。