仕事、仕事といって、家庭をかえりみない夫がいる。子ども、子どもといって夫を大事にしない妻もいる。どちらもウソだ、間違いだ。仕事、仕事といいながら、飲み屋もコンペも仕事のうちに数え、子ども、子どもといいながら、けっこう自分も楽しんで、みんな育児のせいにする。結局、仕事も育児も自分のつごう、自分勝手の言い訳が多い。
仕事も育児も大変だが、なれてしまえばそんなにきついものではない。時間も取ろう、手間もいるだろう。それは仕事だから仕方がない。だけど、心の愛情は、仕事に向けては10%でいい。夫の愛情の90%は家庭に、妻の90%は夫に向けるべきだ。なぜ90%なのか、年をとったらよくわかる。仕事が終わり、子育てがすみ、二人になったらよくわかる。仕事も子育ても、人生本来の目的ではない。過程であり、手段なのだ。手段は手段だから、いい加減には扱えない。目的に合うように、大事に大切にしなければならぬ。しかし、目的ではないから、目的の方を犠牲にするほどに、手段を愛してはならない。
育児が手段だというのには、抵抗があるかもしれないが、育児は手段で、目的は子ども自身の自立にある。夫を目的にできない母が育てると、子が目的になるからまぎらわしい。子が目的ということは、老後も子に依存するということになる。親のエゴには敏感だから、大事なところで子が逃げる。人生のほんとうの目的は、神がその人に託した、人生の使命をまっとうするところにある。
仕事も子育ても、神が託された使命の一つだ。大事な使命を果たすには、夫婦が心を合わせる必要がある。妻が仕事を理解して、かげで力を合わせれば、仕事はかならずうまくいく。一つの仕事をしとげれば、あとはいくつでもできるようになる。よい家庭から、よい仕事が生まれるのだ。よい子育ては、夫婦の愛の共同作業から生まれる。子どもはこの世に生を受け、意義ある人生を送るため、よい両親、よい家庭で、十分に愛されて、育ててもらえる権利がある。
はからずも神がでたが、神がわかると心が満ちて、自分のことは忘れるようになる。神が第一で、妻が第二、子どもが第三で、仕事は第四。自分のことはなくてもいい。それが私たちの人生の、優先順位だ。
(中国新聞 1983年7月22日掲載)
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植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。