日曜日は、丸一日教会で奉仕をします。通常2回の説教をしますが、肉体的に疲れきってしまうことがあります。しかし、礼拝の後に聖書の学びや交わりをしていると、多くの場合、元気を取り戻します。
イエス様はヨハネ福音書の4章で、サマリヤに住む、名もなき一人の女性に会うために、2つのタブーを犯しました。一つ目は、当時ユダヤ人がサマリヤ人に声をかけることはありませんでした。
ユダヤ人とサマリヤ人は交際していませんでした。両者の間には、民族的な仲違いがありました。宗教的に敵対関係にあり、歴史的なしこりがありました。
二つ目は、当時公の場で男性が女性に声をかけることはありませんでした。イエス様はこれらの壁を乗り越えて、一人の女性に伝道されました。
イエス様は、旅の疲れを覚えて井戸に腰かけました。弟子たちは、食料を買いに町に出かけました。その時、サマリヤの女が井戸に水をくみに来ました。その時間は6時だったと聖書にあります。
この6時とは、ユダヤ式には正午、ローマ式には午後6時でした。お昼は暑く、夜は暗いので、どちらにしても人が来ない時間でした。人に会いたくないので、人を避けていたのです。イエス様の方から女性に声をかけました。
伝道が終わったころ、弟子たちが戻って来ました。イエス様と女が2人で話していました。あり得ない光景です。しかし、イエス様に質問する弟子はいませんでした。
このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(ヨハネ4:27)
なぜイエス様がタブーを犯して女性と話しているのか。理由は分かりませんでしたが、弟子たちがあえて質問しなかったのは、イエス様を信頼していたからでしょう。私たちも、理解できないことが起こったときに、神を信頼することが大切です。
次に弟子たちは、先ほどまではあんなに疲れていたのに、今は元気なイエス様の姿を見て「一体どうしちゃったんだろう」と考えたと思います。イエス様は「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」(ヨハネ4:32)、続けて「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(同34)と言われました。
イエス様は、霊的な食事をしたのだと語りました。その食事とは、父なる神のわざを行うこと。つまり、伝道することだと言うのです。
私も特に、一対一で伝道したり、相談に乗ったりすると、元気になることがほとんどです。霊的な食事をしているからです。皆さんもそんな経験はないでしょうか。人のために何か手助けをしたり、相談に乗ったりすることで、かえって元気をもらうということがあると思います。
毎週日曜日、体は疲れますが、心は元気いっぱいになり、元気な心が体をも元気にするので、極限まで体力を使い切ってしまうことがあります。牧師の多くは、月曜日に安息日を取ります。私は、土曜日に安息日を取る努力をしています。用事が入ったとしても、半日でも休みを取るようにしています。その結果、疲れがたまることがありません。
しかし、安息日を取らず、疲れ切ってから休んでも、なかなか疲れは取れません。週に一度、安息日を過ごすことが、最短の休み時間で最大の休息を得る秘訣だと思います。
今週も、元気に動き回れそうです。土曜日に半日休みを取って疲れが癒やされ、日曜日に霊的な食事をして元気になるからです。
話を霊的食事に戻しますが、イエス様は申命記の聖句を引用して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」と教えられました。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:3)
ここでいうパンとは、食事全般を指して言われています。食事も重要だけれど、霊的な食事はもっと重要だと教えられたのです。
昔あるところで、生まれたばかりの赤ちゃんにミルクは与えるけれど、誰も触れず、誰も声をかけなければ、第一声を何と語るかという実験をしました。この赤ちゃんは、孤独に打ち震え、しばらくして死んでしまいました。
ミルクさえあれば、赤ちゃんが生きていけるのではないのです。親の温もりがなければ、生きていけないのです。私たちも、実際の食事以上に神の言葉が必要です。そして「神の御心を行う」霊的食事が必要です。
それが人に活力を与え、生きがいを与え、充実した人生を生きられるようにしてくれます。私がいつも元気でいられるのは、食事のほかに、霊的な食事を食べているからです。人はパン(食事)だけで生きられません。神を信じ、神の言葉を聞き、神と共に神の御心を行いながら生きていきましょう。
神を信じない人は、自分の思う通りに生きることこそが幸せだと考えます。しかし、実際はそうではありません。そこに本当の幸せはないのです。私たちを造られた神と共に歩むこと、そこにこそ真の幸せがあり、真の充実した人生があるのです。
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