目覚ましい働きをすると、誰もがたたえてくれるものです。それが、身内や親しい人ならなおさらです。しかし同時に、ねたみの感情を持たれてしまうことがあります。その人は、表向きでは「素晴らしいですね!」「よくやったね!」とエールを送り、拍手をしているのに、心の中では複雑な気持ちで悩んでしまうのです。
これは、会社の中で力を合わせていかなければならない関係の中にも起こります。お互いに競い合い、課長レース、役員レースを行う競争相手になってしまうことがあります。表面上は友達でも、水面下では敵なのです。同僚の間だけではなく、上司と部下の関係の中にもそのような競争意識は芽生えます。そうなると、上司は部下の手柄を手放しで喜べなくなります。
普通に考えるなら、部下の手柄は上司の手柄のはずです。黙っていても「上司の指導が良かったから、部下が立派な仕事ができた!」と称賛されるものです。悠然と構えていていいはずです。望ましいのは、上司が部下の手柄によって褒められたときには、それを認めるのではなく「君の能力と努力の結果だよ。おめでとう!」と言ってあげることです。
さらに、口で褒めるだけではなく、お祝いの食事に連れて行ってあげたり、仕事に関係のあるプレゼントをしてあげたりしたら良いですね。喜んでいる気持ちは、どんなに忙しくても後に延ばすのではなく即座に伝え、形に表したいものです。
しかも、会社の経費からではなく、ポケットマネーからやると、祝ってもらった人は心から感謝し、一生忘れられないはずです。領収書をもらってやっているとしたら、そのお祝いを通して伝えられるメッセージの効果は半減してしまいます。
「喜ぶ者といっしょに喜びなさい」(ローマ12:15)と聖書は語ります。今日、あなたの身近な人、会社の同僚、部下、友達、家族などの喜びを、自分の喜びとして表現してみたらどうでしょう。「喜ぶ者といっしょに喜びなさい」と言われた神は、まず、あなたの喜びを共に喜んでくださるお方です。
新約聖書のルカの福音書15章には、放蕩に身を持ち崩した挙げ句に、豚のえさで腹を満たそうとするほど落ちぶれた息子が、父のもとに帰って来た話が書かれています。父は子を無条件に受け入れ、抱きしめ、即座に宴会を開いて喜んでくれました。その兄弟の兄がねたましく思うほどでした。
神は今日、あなたを待っておられます。神に心を向け、神に立ち返るなら、周りがうらやむほどにあなたを喜び、祝福してくださいます。神はあなたの存在を喜び、ありのままで愛してくださっています。
こんなゴスペルソングがあります。
♪主イエスは僕の宝、主イエスは僕の命
僕に代わって十字架についた、主イエスは僕の全て♪
私は、イエス様と両思いです。私に対してこのような気持ちでいてくださると信じています。
♪直基は僕の宝、直基は僕の命
僕が代わって十字架についた、直基は僕の全て♪
私は、神の愛を心の底から信じています。神は私の存在を喜び、ありのままの私を愛してくださっています。その神様が、私の心の中に住んでいてくださるので、私の心の喜びは揺らぐことがありません。
私はその神と共に、他者の喜びを自分のことのように喜びたいと思います。他者を喜ぶということは、心の中におられる神を喜び、同時に自分をも喜ぶことになります。他者と共に喜ぶことは、自分を祝福することになります。
その反対に、他者をねたみ、憎み、赦(ゆる)さないことは、心に住んでおられる神を拒絶し、自分をのろうことになります。人を愛さないことは、自分の体をトゲのあるムチでたたき、首を思いっきりしめることになります。
しかし、人を愛し、人の喜びを共に喜ぶことは、私たちにとって難しいことです。「私もそうありたい!」とねたましく思うからです。その苦しみと葛藤という暗闇の中に、イエスが輝いています。イエスに心を向け、イエスを心の中に迎え入れてください。
その時、他者の喜びを少しずつ喜べるようになっていきます。喜んだふりをしなくていいのです。イエスが心の中に来られるならば、必ずねたみは喜びに変わっていきます。他者の喜びを共に喜ぶならば、あなたの喜びを共に喜んでくれる友達が一人増えたことになります。
どんなに目覚ましい業績を残し、人生において成功したとしても、その喜びを分かち合う相手がいないくらい寂しいことはないからです。文章を通して、あなたと共に喜び合えることを感謝しています。あなたの喜びが私の喜びとなっているからです。
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