前途多難とはいえ、奴隷制度廃止を願う社会思想家や一部の政治家たち、そして一般市民の熱い祈りは、少しずつ世の中を変えつつあった。
奴隷解放の叫びは北部の町々にとどろき、賛同する者が日増しに多くなってきた。リンカーンが所属する「共和党」は奴隷制度廃止を第一番目の政策として掲げており、このために命を懸けてもよいと思う議員も数多くいた。
そんなある日のこと。リンカーンは自宅でストウ夫人の書いた『アンクル・トムス・ケビン(アンクル・トムの小屋)』を読んでいた。彼は何度もこの本を繰り返して読み、読むごとに自分の味方がいるような気がして心強く思うのだった。
今彼は、ちょうどトムの臨終の場面を読んでいた。「・・・だれでも、どこにいても、みんな愛しますだ。愛よりほかにごぜえません・・・」。リンカーンは、目を閉じてつぶやいた。「この小説は、まさに神様がストウ夫人の手を取って書かせたとしか思えない。何と素晴らしい小説だろう」
その時、家政婦のスーザンが来客を取り次いだ。4人の紳士が入ってきた。それは、議員の一人ウィリアム・ダッカ、弁護士のヘンリー、説教者のプライス、「共和党新聞」の主幹ジェイムズであった。彼らはリンカーンを大統領候補に推薦し、正式な返事をもらいにきたのであった。
「もし、お引き受けくださったら、われわれはあなたを助けて、奴隷制度廃止のために力いっぱい戦うことを誓います」。4人は頭を下げた。リンカーンはしばらく目を閉じていたが、やがてため息をつき、大きく首を縦に振った。「お申し出、お受けいたします」。「おお」。4人は手をたたき、互いに抱き合って歓喜を表明した。
「では、よろしくお願いいたします」。4人が帰ると、リンカーンはその場にひざまずいて祈った。「神様! 私はかわいそうな奴隷たちのために、身を捨てて呪わしい奴隷制度をなくすために働きます。どうか、力を与えてください」
リンカーンが大統領候補になったといううわさが町に流れると、奴隷市場の前では奴隷商人たちがたむろして話し合っていた。「あんな男がもし大統領にでもなったら、われわれの商売はあがったりだぞ」
「いや、大丈夫さ」。仲間が言った。「南部では地主の連合会があるし、北部でも商業組合の結束が固い。団結して奴隷制度は国益のために必要であることを主張すればこっちが勝つさ。それでも法案が通過しそうになったら、暗殺するだけだ」。彼らはこぞってリンカーンを憎み、恨みを募らせるのだった。
1860年11月。リンカーンは共和党から立候補し、大統領に当選した。その翌年の2月。ここはジェイムズヴィルの小さな家である。リンカーンの第2の母サリーは片付けものを終わらせ、一人暖炉に座って火を見つめていた。そこへ馬車が止まり、背の高い男が降りて中に入って行った。
「エイブ、待ってましたよ」。「お母さん、ご無沙汰しています」。2人は堅く抱き合った。
「お母さん、先月手紙でお知らせしたように、いよいよ共和党推薦で私は大統領に選ばれました。これからワシントンに行って大統領の宣誓式が行われるのです。汽車の時間に少し余裕があるので、お母さんに会いたくてお訪ねしました」
「エイブや、大統領といえば、もうおまえはこのお母さんのものではありません。アメリカ中のものになったのです。今まで私に孝行してくれたように、今度はアメリカ中で苦しんでいる人の力になってあげるのですよ。特におまえがかわいそうな奴隷たちを助けようとして、そのために苦労していることを私は知っています。一つだけ心配なのは、南部の人たちが、必要以上におまえを憎んでいることです。それだけは十分に注意してね。でもエイブ、おまえには神様がついていらっしゃいます。恐れずに進みなさい」
母と子はしっかりと抱き合った。そして一緒に聖句を口にした。
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。(2コリント4:8)
その時、御者が汽車の時間が迫ったことを知らせてきたが、2人はまだ抱き合っていた。
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<あとがき>
リンカーンは「共和党」に所属しており、議会で毎日のように「奴隷制度廃止」を訴え続けていました。この頃には一般市民の中にも奴隷制度に疑問を感じる者が日増しに増え、その数は次第に多くなってきたのです。リンカーンは日頃愛読している『アンクル・トムス・ケビン』の著者ストウ夫人に強い共感を覚え、彼女が同じ志を持った協力者のように思えるのでした。
そんなある日。長い間のリンカーンの血と汗の苦労が報われる時がきました。4人の紳士――議員のウィリアム・ダッカ、弁護士のヘンリー、説教者のプライス、「共和党新聞」の主幹ジェイムズがやって来て、リンカーンを大統領候補に推薦するので正式な返事が欲しいと言うのでした。
リンカーンはしばらく目を閉じて、心の中で祈ってから、静かにその依頼を受けました。そして1860年11月。リンカーンはついに大統領に当選したのでした。神様は最後に、彼に重責を与えられたのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。