ある日のこと。一人の老婆が杖にすがってリンカーンに訴訟事件の弁護を頼みに来た。
「先生、聞いてくださいまし。私の夫は独立戦争の時に戦死いたしました。その功績で、あとに残った私は、政府から恩給を頂きまして、どうにか暮らしておりました。だんだん年を取ってきて、自分で役所にお金を頂きに行くのがつらくなってきました。それで、近所の方に頼んだところ、その人は年金受け取りの手数料だと言って200ドルのお金を取り上げてしまいましたので、そんなことをされては、せっかく頂いた恩給も残りが少なくなって、私は暮らしていけません。先生、お願いでございます。私を助けてくださいまし」
涙ながらの訴えを聞くと、リンカーンはもうじっとしていられなかった。そこで早速老婆を連れて、ちょうど開かれていた「巡回裁判所」に駆けつけて訴訟を起こしたのだった。
やがて、村役場の庭で開かれた裁判。木陰の一段高い所にテーブルを前にして座ったのが裁判官である。それと向き合って、老婆とリンカーンが並んで腰をかけた。そこへ一人の、体つきの大きな男がつかつかと群衆の中から出て、2人のそばに腰をかけた。それが、老婆の200ドルを取り上げた男スペンサーだった。
「あの弁護士、いやに痩せてひょろ長いなあ。それに、貧乏くさい格好をしているじゃないか。大した弁護はできまい」「どっちみち、スペンサーにあっちゃかなうまい。あいつは悪党だからなあ」
庭に集まった人々は、ひそひそとささやき合いながら、木陰や石の上に腰を下ろして見守っていた。
やがて、事実確認が済むと、被告のスペンサーが立ち上がって目をぎょろつかせながら言った。「確かにその婆さんから200ドルの手数料をもらいました。でも、これは決して不当じゃないと思います。遠い所をはるばる役所に出向いて、面倒な手続きをしてお金をもらってくるんですぜ。そのくらいもらって当然でしょう」
その時、リンカーンが立ち上がって言った。「裁判長、私はこの手数料を不当と認めて、被告スペンサーに撤回を命じられるよう要求いたします。200ドルといえば大金です。わずかの恩給年金受け取りの手数料のために、こんな大金を支払う者がどこの国におりますか。ましてや、原告の老婆は名誉ある独立軍の戦死者の妻でございます。国のために命を捨てて戦った勇士の妻は今、わずかな恩給を頼りに生きているのです。恩給は、彼女の命の綱なのです。それを手数料だ何だと申して、国家の恩給を横取りするなど、恥を知るべきであります。私は正義人道に訴え、裁判長の公明正大な裁決を望むものであります」
リンカーンの口からは、まるで火を吐くように言葉があふれ出た。聴衆は、身じろぎもせずに聴き入っていた。さすがに強欲なスペンサーも、リンカーンの言葉に青ざめてうつむいたのだった。
「被告スペンサーは、200ドルを原告に返すよう命じます」。裁判長の重々しい声が響いた。聴衆は一度に喜びの声を上げた。老婆は、リンカーンにすがりついて、うれし泣きに泣いた。「先生、ありがとうございました」。そして、弁護料を差し出したが、リンカーンは受け取らなかった。
また同じ頃、イリノイ州のある町で、「巡回裁判」が開かれたので、町を歩いていたリンカーンは、ボロ着の少年に呼び止められた。「おばあちゃんが、一度先生にお目にかかりたいと言っています」
その子についていくと、うらぶれた路地裏の、ひさしが傾いた家の中に、瀕死の老婆が横たわっていた。その顔を見た瞬間、リンカーンははっとした。それは、彼がまだケンタッキーで暮らしていた6歳の頃、一家に目をかけてくれ、薪を割ってくれたり、食物を分けてくれたりした地主のアガタだったのである。インディアナ州に一家で引っ越したときには村境まで送ってきてくれたのだった。
「心配のないよう、お困りにならないようにして差し上げますからね」。リンカーンは病人の耳にこうささやくと、彼女の足をさすっている孫のポケットにそっと銀貨を忍ばせた。それから、帰り道で医者に頼んで金を渡し、老女を見舞ってもらったのだった。
そしてそれからも、恩人であるアガタが死ぬまで、誰にも知られることなく生活の面や介護における援助を続けたのである。
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<あとがき>
念願の弁護士を開業したリンカーンの所に、横暴な男のために違法なやり方でお金を取られた貧しい老婆が相談にやって来ます。老婆の訴えを聞くや、リンカーンの中に正義の火が燃えさかりました。
彼は村役場の庭で開かれた裁判に出かけてゆき、堂々と搾取された貧しい老婆の弁護をし、彼女が男に奪い取られた200ドルを返してあげたのでした。この裁判で勝利してから、いよいよリンカーンは貧しい人々から頼りにされ、敬われるようになりました。
その後、リンカーンの前には悲しい再会が待っていました。かつて彼が少年だったころ、一家でインディアナ州に移るとき、何かと家族に親切にしてくれた地主のアガタが落ちぶれて、軒が傾く長屋で医者にもかかれずに伏せっていたのです。
リンカーンは彼女の孫のポケットにそっと銀貨を忍ばせ、医者に彼女の面倒をみてくれるよう頼み、その後もアガタが死ぬまで人知れず世話をし続けたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。