1831年6月。エイブは再びミシシッピー川をさかのぼってスプリングフィールドのデントン・オフェットの店に帰った。エイブたちが商売でかなりの収益を得て帰ってきたので喜んだオフェットは、ニューセーラムの村に店を出し、手広く雑貨店を始めた。これがなかなか繁盛し、間もなく村一番売れる店となった。
12月末、エイブたちはペンキも鮮やかに「乾物・雑貨 オフェット商店」と書いた看板を出し、店内には雑貨用品、酒のたる、ジャガイモ、砂糖菓子、リンゴなどを置き、土間には鎌、すきなどの農具や、壁には猟銃まで並んでいた。
朝から晩まで客足が絶えることなく、子どもたちまでが店をのぞきに来るようになった。オフェットは肘かけ椅子に揺られ、パイプをくゆらせながら店にやって来る若者をつかまえては、エイブの自慢話をしていた。
「とにかく、あんな素晴らしい働き手は他にいやしない。客との取引はうまいし、短時間でたくさん品物を売ってもうけを出してくれる。人に親切で面倒見もいいから、子どもにも慕われているんだ。それから何てったって彼には力がある。店に泥棒が入っても、きっとあの怪力で追い散らしてくれるだろうからな」
「そんなに彼は力があるんですか」。一人が言った。「それなら、村の広場で俺たちのリーダー、ジャック・アームストロングと勝負させてみようじゃないですか。なあ、みんな」。「それがいい。それがいい」
――というわけで、エイブは村の広場で力持ちと言われているアームストロングと相撲を取ることになった。エイブはあまり気乗りがしなかったが、皆に推されて仕方なく広場に向かった。
ジャック・アームストロングは体が大きく腕力が強く、やくざを3人まとめて川の中にたたき込んだことを自慢していた。
勝負が始まったが、初めからエイブは本気で勝敗を競うつもりはなかった。しかし、エイブの方が優勢で、彼はジャックの体を抱え上げたが、地面にたたきつけて相手に恥をかかせたくなかった。そこで、静かにそっと下に降ろしてやった。
しかしジャックにはこれが屈辱だったようで、隙を見て殴りかかってきた。これにはさすがにエイブもむっとして、相手を投げ飛ばした。すると、彼の仲間は怒って7、8人がぐるりとエイブを取り囲んだ。
「このやろう!」「なめるなよ」。そして一斉にエイブに向かってきた。「君たち、本気でけんかするつもりなのか。それなら仕方ない」。エイブは両手をはたいて彼らを迎え撃った。
その時である。ジャックは手を上げて彼らを制し、そして言った。「ちょっと待て。ひきょうなまねをした自分の方が悪かった」。そして、エイブの手を握ってわびた。「どうか、赦(ゆる)してくれたまえ」
「いや、自分こそ悪かった」。エイブも相手の手を握り返した。「力が入り過ぎて、痛い目にあわせてしまったね」。以後、2人は生涯の親友となった。実に、このアームストロングこそ、その後エイブを政界に押し出すために力を注ぎ、良き理解者となった人物であった。
さて、この村に、ベッシーと呼ばれ、独りぼっちで暮らしている老女がいた。彼女は足腰が弱っていて歩行もだんだん苦になってきたが、ある時、隣村に住む妹マルタの息子ジョージが病気と聞き、痛む足を引きずってこの家に出かけた。
そして、看病やら、食事作り、それから洗濯などをして帰ってくると、木戸が開いていて、足跡が一面についていた。さては泥棒が入ったかと、人を呼びに行こうとしたとき、勝手口から逃げて行く人影を見た。背がひょろ高く、特徴のある体つきなので、彼女はすぐに分かった。(エイブさん・・・どうして)
震える手でろうそくをつけて照らしてみると、土間いっぱいに薪の山があるではないか。
翌日。会って早速昨日の礼を述べると、相手は首を振ってこう言うのだった。「さあ。そんなことは知りませんよ」。しかし、エイブの善行は、その日のうちに村中に広まってしまった。
「人助けをして。しかも、その善行が知られないようにするなんて。エイブさんは人格者だよ」。人々は語り合うのだった。そしてそれからは全ての人が、彼のことをエイブという少年時代の名ではなく、「リンカーンさん」「エイブラハムさん」と呼んで尊敬するようになったのだった。
*
<あとがき>
エイブは再びスプリングフィールドのオフェットの店で働き始めました。オフェットはすっかりエイブを信頼し切っていたので、店の全てを任せていました。
しかも、まるで自分の息子のように思い、店にやって来る若者をつかまえては、いかに彼が素晴らしい働き手であるか、また怪力の持ち主で誰もかなう者がないことを自慢するのでした。
そんなある時、若者の一人が、村一番の力持ちと言われているジャック・アームストロングと対決させたらどうかと提案します。エイブはあまり気が進まなかったのですが、村の広場に行き、アームストロングと勝負し、勝ちました。
アームストロングはこの時、ひきょうなまねをしましたが、すぐにそれを恥じ、この時から2人は親友になったのです。その後、彼は熱烈なエイブの支持者となり、この人物の助けがなかったら、エイブ・リンカーンは政界に足を踏み入れることはできなかったろうといわれています。
◇
栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。