不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(69)
イエスは祈る
祈るとはどういう事柄であろうか。と考えることはほとんど徒労かもしれない。なぜかといえば、われわれ人間は祈る存在であるからだ。むしろこのように言うべきかもしれない。「いったい人間が祈らなかった時代があるのだろうか」と。そのように言わざるを得ないほどに人間は祈るのである。時にはそれが誰に向かっているのか漠然としていたとしても、気にせず祈る、それが人間というものである。
イエスは山で祈っていた。山の下では弟子たちが舟に乗ってガリラヤの湖で悪戦苦闘している。イエスは誰に何を祈っていたのか。そのことに聖書は全く関心を寄せないのであるが、イエスが祈っていたという事実をわれわれは知らされるのである。イエスは神であるのにどうして祈るのかという問いは愚問であろう。イエスは完全な人間でもあるのだから、われわれと同じように祈るのである。それで十分だ。そして重要なことは、イエスが祈るのであるから、われわれの祈りが聞かれるのと同じようにまた、イエスの祈りも聞かれていたと信じるべきだ。誰に?
われわれも祈る
祈りとは、神との会話であると教えられたことがある。まあ、確かにそういうものかもしれない。祈りは聞かれていると信じて祈れとも教えられたが、聞かれないなら祈るはずもないから、当然である。聞かれると思うから祈るのであるが、もちろん神が聞いてくれないと困る。
しかし、祈りはとても複雑な人間行為であるので、時にはとてもネガティブなことも祈る場合はある。「あっ、それはちょっとダメなことだ」と気が付くこともあるが、後の祭りである。祈りには恨みつらみも伴うのだ。もちろん隣人愛に満ちあふれることも多い。他人のために祈っている自分に気付かされ、はっとすることもあるだろう。この世のドロドロした何かに打ちひしがれて棄教したり、信仰から遠ざかったりしてしまうのも人間らしいのであるが、そういう人もまた祈ることは忘れていないかもしれないのだ。人生の凸凹の中で、ふと偶然にも真摯(しんし)に祈っている自分と再会した経験は誰にでもあるのではないだろうか。その時は、素直に「神に賛美」でよいのだ。
比喩的に考えてみた
イエスが祈っている間、弟子たちは湖の中を漂う舟の中にいた。夜が明けようとしているのに、岸から離れたままである。逆風で前にも進めない。波に悩まされている。弟子の中には漁師経験すらない者もいる。激しい船酔いでのたうち回る者もいただろう。とにかく水は危険なのだ。岸から10メートル離れただけであっても、転覆したら命の保証はないのだ。そもそも嵐であればどこが岸かも分からなくなる。そこにイエスが来たのだ。
荒れる湖の上をイエスは平然と歩いて弟子たちの方に来たのだ。何とも不思議な光景である。もちろん弟子とイエスの対比を比喩的に説明することも可能だ。教会はしばしば舟をシンボルとする。舟に乗っている弟子たちは、われわれ自身でもあるのだ。荒れたガリラヤの湖は、不条理なことが多いこの世を象徴しているだろう。神はしばしばこのようなこの世のただ中にわれわれを強いて導かれる。
全くもって悪戦苦闘の人生だ。それは仲間が集まって一生懸命に目標を目指していても同じことだ。どうにもならないことの方が多い。われわれにとって荒れ狂うこの世の様ではあるが、かといって神なる方にとっても同じというわけではない。神に不可能はない。悠然と嵐の中を通り抜けて、われわれの元にはせ参じてくれる。その神の見える姿こそがイエスなのだ。じたばたとこの世の中で漂っているわれわれの元へと駆け付けてくれるのだ。
幽霊ではない
では、そのようなイエスを弟子たちはどう受け止めたのか。彼らは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を挙げたのである。まあ、分らんでもないが、というか、そりゃそうだとしか言いようがない。静まりかえった湖の上なら歩けるとか、そういう話ではないのだ。
そもそも人間は水の上を歩けない。歩けないから「舟」という道具を使うのである。にもかかわらず水の上を「歩いて」近づく存在がいるとしたら、それは「人間」ではないのだ。イエスを「幽霊だ」と勘違いした弟子たちに問題があるとは思えないのだ。
当時の幽霊感覚というのがどういうものかは分かりかねるが、やはり「邪」の類いであろう。常識的にいえば、「もはやこれまで」的なものだ。いわゆる一巻の終わりである。だからイエスは「幽霊だ」と勘違いされたところで怒りはしないのだ。むしろ「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ14:27)と言われた。この言葉は叱責ではない。「私は目の前にいる。大丈夫だ」という意味なのだ。まさに「わたしの助けは来る」(詩編121:2)のだ。ただし、水の上を歩いてきたというのは、どこまでも神秘ではあるが。(続く)
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