イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。・・・イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。(マタイ9:27~31)
日本のキリスト教会の中で聖霊の豊かな働きを推し進められ、松山福音センターでも説教を語ってくださったこともある、高砂教会の手束正昭牧師が天に召されたと伺い、弔問のため教会を訪れました。その死は、キリストの兵士の凱旋であること、そのビジョンは、残された者たちが引き継いで新しい時代を切り拓くことであると決意とともに祈ることができました。時代が移りゆく中で、聖霊の働きによる新時代、神様が力強く私たちの人生に働かれるという新鮮な恵みを体験しようではありませんか。
共観福音書の同じような話でも、それぞれに特徴があり、マタイの福音書では、しばしばイエス様が人々に信仰による応答を求めておられます。聖書の時代の人々だけでなく、私たちにも信仰による応答を求めておられるのです。イエス様を信じ、癒やしを体験するため、4つのポイントを学んでまいりましょう。
1. 自分の必要を主の御前で認めよう!
私たちは問題を抱えていながらやせ我慢をすることがあります。イエス様の前に出るとき、その必要はありません。自分の必要を素直に認めましょう。ここで2人は、イエス様の前で目が見えるようになることを明確に求めたのでした。イエス様は疲れて重荷を負っている全ての人を招いておられるのですから、遠慮せず必要を素直に願い求めましょう。
2. 目の前に救い主、癒やし主がおられることを知ろう!
私たちが祈りをささげ、求めるのはイエス様に対してです。人の目を気にして上手に祈ることや行動することではなく、私たちの行動はイエス様に対して行うものであるはずです。2人はイエス様に大声で叫び、イエス様が入った家について行き、目の前のイエス様に願ったのです。イエス様の臨在です。私たちも目の前のイエス様を意識して向き合いましょう。
3. 癒やしへの願いを主に明確に伝えよう!
イエス様に対して心の底から「癒やしてください。病や痛み、煩わしさから解放してください!」と祈りたいのです。癒やされなかったらどうしようなどと結果を気にして、ごまかしながら中途半端に何となく祈るのではなく、はっきりと大胆に癒やしを求めることです。イエス様は「そんなことができると信じるのか」と問うてくださるのですから、「そうです!」と答えましょう。
4. 自分自身の信仰をしっかりと働かせよう!
イエス様は私を癒やすことができると、ほかの誰でもない、自分自身が信じることです。疑わず、ちゅうちょもなく、はっきりと応答できる信仰を働かせたいと思います。神の御業を体験できるのは私たちの努力や力、業によるのではなく、救い主であり、癒やし主であるイエス様がおられるからです。私たちの信仰とは、イエス様との関係を指し、イエス様は私たちの信仰を問われているのですから、一人一人が応答することです。信じた通りになるのですから、自分自身の信仰を働かせ、祈っていきましょう。
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