「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)
3歳の男の子のいたずらが過ぎたため、お母さんに押入れに閉じ込められてしまいました。
彼は、初めは暴れていましたが、やがて静かになり、中からこう言いました。
「ママ、ボク神さまに "もうこんなことをしませんように" ってお祈りしたからゆるして」
お母さんは「そう、分かったわ。神さまにお祈りしたのならゆるしてあげるわ」と言って出してやりました。
そして「偉いわネ、"もうこんなことをしませんように" ってお祈りできたのね」と褒めると彼は「ウン、チャンとしたよ。ボクがいらずらしてもママが怒ってボクを押入れに入れるようなことは "もうしませんように" ってね」と言ったのです。
私たちも「他人が変わりますように」としばしば祈りますが「自分を変えてください」とは、なかなか祈らないものです。しかし、困難に直面したり、問題にぶつかったときの解決の鍵は、「自分が変わる」ことにあるのです。
聖書には、イエス・キリストとの出会いを通して自分自身が変えられることで、新しい人生を歩み始めた人々がたくさん登場します。そして、それは今日も同じように起こっているのです。
イエス・キリストとの出会いによって喜びの人生に変えられたという一人の女性からのお手紙を紹介します。
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初めてお手紙書けることをとてもうれしく思います。いつも教会に行けること、そして牧師先生の分かりやすく聞けるお話に、ただただ感動するばかりです。
そもそも私が教会に初めて足を運んだのが、約10年くらい前になると思います。それは、幾つかの出来事がきっかけでした。まず、私の母が頭のてっぺんから足のつま先まですっかり変わってしまったことです。それは外見ではなく内側から輝くように見えました。私は母に「何かあったの?」とちょっと不思議になって尋ねると、その時はただ「英語の教室に通ってる」と言うだけでした。
でも私の心の中で "英語を習うだけで人はあんなに変わってしまうものだろうか・・・" という疑問がありました。それも先ほど言ったように、本当に見違えるほど、母の全体的な姿がまるでキラキラと宝石のように見えることを目の当たりにしたからです。
母は、私の子どもの頃からヒステリックなところがあり、いつもカリカリしている人間でしたが、その部分も全く見受けられなくなってしまったのです。
しばらくしてから、私はまた母に尋ねました。「お母さん、何かあるよ・・・教えて!」と聞くと、母は静かに答えました。「・・・実は教会に行くようになったの・・・Mちゃんは神様って知ってる?」私はその言葉を聞いたとき、目を見開いてびっくりしました。
それでも多少なりとも自分で興味があったのか、その週の日曜日に教会に行くことになりました。
牧師先生のお話を聞き、斧か何かで頭から体全体を真っ二つに切り裂かれた感覚に陥ったのでした。自分には重い罪というものがあるということ・・・そしてその罪はイエス・キリストの十字架でしか贖(あがな)えないこと。
そして、聖書に目を向けるようになって私自身が最も衝撃を受けた御言葉は、イザヤ書43:4「わたしの目にはあなたは高価で尊い」でした。
それは、私の今まで生きてきた人生を覆すほどでした。なぜなら、私は自分が大嫌いだったからです。自分が大好きという人はたくさんいるかもしれませんが、私はめずらしく大嫌いで、いつも暗闇にいた気分でした。でもイエス様と出会って、その暗闇の中にパァーっと光が差し込んで、それはまるで光が闇を包み込んでしまうかのようでした。
そしてその後、聖書を持ったまま号泣しました。こんなにも私を愛してくださる方がいらっしゃるんだ。人はすぐ裏切るけれど、この方なら決してお見捨てにはならないと確信しました。
聖書でも言っている通り、第一コリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」その一番重要な "愛" に、今思うと私は飢えていたのです。
さまざまな人間関係の中で裏切られた経験があったからかもしれません。でも今は人の罪も赦(ゆる)せ、イエス様の愛で満ち足りた人生を送れることに、神様に感謝しています。嫌なことでも進んでできるように少しずつ変えられたことも神様に感謝しています。
そして引き寄せられるようにして教会に行くことになったもう一つの理由・・・それは「真実」です。私は常に真実が知りたかったのです。
これはもう子どもの頃からいつも思っていることでした。・・・私の実家はとても大自然に囲まれた田舎にあります。大きな山々が連なり、川も田んぼもたくさんあります。そういう中で育ってきました。私は子どもの時から、それらが素晴らしく思え、人間業ではとても作れないと心の中でずっと思っていました。
春になれば桜やたんぽぽがこれでもかというほどに咲き誇り、夏になれば目がくらむほどの緑に覆われ、秋になれば地面に色とりどりの木の葉が落ち、冬になれば真っ白な銀世界に包まれました。それらを見ながら、私はいつも "こんなふうに素晴らしく移り変わる景色を作ってくれたのは誰?" と自分に問いかけていました。
それを思うと同時に、私はただ寝て起きて自分のやるべきことをして、また次の朝を迎えることにどうしようもなく疑問を抱いていました。自分はもっと意味のある存在なのではないだろうか・・・と思っていました。
それをずっと自分なりに追求してきました。その追い求める思いがあったからこそ教会に行くようになったのかもしれません。
そして、その求めていた答えが分かりました。そうです。私が子どもの頃から追い求めていたのは神様ただお一人だったのです。全てのお導きが神様のご計画なのかと思うと、うれしくてうれしくて胸躍る思いです。
そして、ある日のお祈りの中で "神様は確かにいらっしゃる" という大きな大きな出来事に遭遇したのです。夜空一面輝く星の中での素直なお祈りでした。
「全知全能の神様、万物を支配される神様、私は今こそイエス・キリストを、その御名を受け入れ、共に生きていきます。自分の重い罪をイエス・キリストの十字架に贖ってくださり、あなたの大きな愛の中で生きられることを感謝します。どうか・・・私を受け入れてください・・・」
すると、私の切なる思いに応えてくださるかのように、あちらからもこちらからも星が飛び交い、それはもう流れ星のパレードでした。私は祝福されているかのように思え、うれしくてうれしくてその日はなかなか眠れなかったのを覚えています。
イエス様は、口ではとてもとても言い表せない偉大で素晴らしいお方です。これからも素晴らしいイエス様の存在を牧師先生の口を用いて宣べ伝えることができるようお祈りいたします。また私共々教会にいらしている兄弟・姉妹たちの皆様方にも「福音の使者」として神様に用いられますように心からお祈りいたします。
全ては神様のご計画のままに・・・いつまでも皆様(兄弟・姉妹)たちが健康であり教会がこれからもさらに繁栄し、イエス様の平安と祝福と愛で満ちていますように・・・アーメン
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人生を一変させる出会いを、今もイエス・キリストは与えておられるのです。
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