「主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパニヤ3:17)
「睡眠時無呼吸症候群」という病気があります。
眠っているとき、呼吸が止まってしまう。自分では気が付かない。誰が気が付くかというと、隣で寝ている人です。
ハッと気が付くと、隣の夫の呼吸がピタリと止まる。1秒、2秒・・・もう10秒も息をしない。「このまま死ぬんじゃないか」と思った途端、また息をする。
そこで奥さん、ホッとするか、ガッカリするかはそれぞれです。
どうしてこんなことになるかというと、リラックスして仰向けに寝ると、舌もリラックスして舌の根っこが落ちます。そして息を吸うとき、さらに舌が内側に引っ張られて下がります。その結果、無呼吸となるのです。
気道を舌が上から押さえます。した(舌)のくせに、上から押さえます。でも、ズーッと押さえているわけではない。舌の調子がいいときは、押さえない。これを「絶(舌)好調」といいます。
この無呼吸が1時間に5回以上だと危険、一晩のうちに30回以上だと治療が必要だそうです。
呼吸が止まって再び呼吸を始めるとき、大抵いびきをかきますが、その時の脳波を見ると、起きている時と同じ脳波が出るそうです。つまり、一晩のうちに何十回も目が覚めていることになります。だから寝ているのに昼間眠くなるのです。
夫にこの兆候がある方は、すぐ病院に連れて行くか、生命保険に入れてあげてください。
ある時、イエスの弟子のペテロとヨハネとヤコブは、本当に息が止まる経験をしたことが聖書に記録されています。別に彼らが「睡眠時無呼吸症候群」にかかっていたわけではありません。では、何が起こったのでしょうか。
「イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて祈るために山に登られた」のです。この「山」とは、伝統的には「タボル山」(588メートル)だといわれていますが「ヘルモン山」(2814メートル)だという学者もいます。
イエスが祈っておられると、突然彼らの目の前でイエスの姿が変わったのです。「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」のです。「しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであった」
モーセもエリヤも、旧約聖書の時代の人で、すでに亡くなったはずの人たちです。この光景を見せられた3人の弟子たちは、目が点になり、息が止まるような思いだったことでしょう。
弟子たちが恐れていると、雲の中から声がしました。父なる神の声です。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」
弟子たちが恐る恐る目を開けると、モーセとエリヤの姿はなく、いつものイエスがそこに立っておられたのです。
この出来事は、私たちに何を教えているのでしょうか。
(1)死んだ人は死んでいない
モーセもエリヤも、はるか昔にこの世を去った人たちです。つまり、モーセもエリヤも、この地上における彼らの存在はなくなったのですが、彼ら自身はその後も存在し続けていたのです。
ある人は「死んだら何も残らない」「死んだら無だ」と言います。しかし、それはうそです。肉体はちりに帰っても、魂は永遠に生きるのです。
米国の有名な伝道者ドワイト・L・ムーディーは次のように書き残しています。「いつか皆さんは、ムーディーが死んだというニュースを聞くでしょう。しかし、それを信じてはいけません。その時、私は今以上に豊かに生きているからです」
モーセやエリヤ、ムーディーがそうであるように、私たちの人生も、肉体の死によっては終わらないのです。私たちも神と共に、永遠に生きるのです。ですから、私たちは肉体の死を恐れる必要はありません。
(2)栄光は受難の力となる
イエスが弟子たちに、やがて自分は十字架にかかって死ぬと話されたとき、それを聞いた弟子たちの心に恐れと不安が広がっていたに違いありません。しかしこの時、山の上で見たイエスの栄光の姿は、弟子たちの心に喜びと勇気を与えたはずです。
事実、ペテロとヨハネとヤコブの3人は、この栄光の体験を力としてこの後の人生を歩んだのです。ヤコブはヘロデ・アグリッパ王の迫害によって剣で殺され、殉教します。ペテロはローマ皇帝ネロの迫害によって逆さ十字架刑で殺され、殉教します。ヨハネはローマ皇帝ドミチアヌスの迫害によってエーゲ海の孤島パトモス島に島流しの刑に処せられます。
彼らは死を恐れず、最後までキリストの弟子であることを誇りとしながら生涯を全うしたのです。間違いなくこの栄光の体験は、彼らの信仰を力強く支えたのです。
(3)御心に従うときに聞こえる神の声
イエスはこの時、栄光の姿に変えられ、そのまま栄光の雲に包まれて天に帰っていくこともできたはずです。ここまでのイエスの地上人生も、十分に素晴らしい人生でした。
神の国について多くを教え、多くの病人を癒やし、悪霊から解放し、奇跡によって神の愛と力を示してこられました。申し分のない人生だったと思います。
しかしイエスは、この山の上でもう一度父なる神の御心、つまり十字架にかかり、人類の罪の身代わりとなって死に、救いの道を開くという自分に対する神の計画を確認されたのです。
その時、天から声がしたのです。「これは、わたしの愛する子。わたしの選んだ者である」
イエスの人生は、父なる神の御心を全うすることに集約されていました。「わたしがしたいようにではなく、父よ、あなたのみこころがこの身になりますように」としばしば祈られました。
ある人の祈りは逆です。「主よ、これが私のやりたいことです。これを御心だと言ってください」。そうではなく「主よ、あなたの御心を示してください。それが私の願いと違っていても従います」と祈るべきです。
その時、あなたの心にもきっと神の声が響いてくるでしょう。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。わたしはこれを喜ぶ」
三浦綾子さんの小説『塩狩峠』は、読む人に深い感動を与えます。映画にもなりました。この作品は、実話をもとに書かれたものです。
1909(明治42)年2月28日、北海道の名寄駅を出た列車は、旭川へ向かっていました。途中、列車が塩狩峠の急勾配に差しかかったとき、最後尾の客車の連結器が突然外れて、客車は前の車両から離れ、逆方向に坂を下り始めました。
もはや脱線はまぬがれまいと乗客はパニックに陥り、車内は大混乱でした。外はもう暗くなり、小雪が舞っています。このままでは多くの死傷者が出て、大事故になるのは避けられません。
この列車に一人のクリスチャンの鉄道職員の青年が、友人と一緒に乗っていました。彼はすぐに客車のデッキに出てハンドルブレーキを力いっぱい回して止めようとしました。客車はいくぶんスピードを落としましたが、このままでは次の急勾配で客車は再び暴走する。それまでには完全に停止させねばなりません。
「どうすればいいのか」これ以上ブレーキは利かない。彼の心には幾つもの思いが通り過ぎたことでしょう。次の瞬間、客車はゴトンという大きな衝撃とともに、完全に停止しました。
乗客たちは「助かった!」と大歓声を上げます。しかし、乗客たちが列車を降りてそこに見たものは、自らの身を線路に投げ出して、血まみれになって死んでいる一人の青年の姿でした。
この青年の名前が、長野政雄さん。彼は一人の鉄道員として、一人のクリスチャンとして神の栄光を現しながら生き、そして天に召されていったのです。
あの日、塩狩峠にも神の声が響いたことでしょう。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。わたしはこれを喜ぶ」
三浦綾子さんは長野政雄さんのことを「一粒の麦のようなたくましさ」と表現しています。「一粒の麦のようなたくましさ」とは、損得勘定する自分の殻を破ってキリストに従うとき、その殻が割れて隠されていたキリストの栄光が輝き出るような生き方であるといいます。
イエス・キリストの十字架と復活も、イエスの従順によって完成された神の計画でした。私たちも祈りの中で「主よ、私の願いではなくあなたの御心をなさせ給え」と祈り、従うとき「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。わたしはこれを喜ぶ」という神の声を聞くのだと思います。
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