「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す」(伝道者の書11:1)
ある時、道を歩いていると、前をジャムパンとメロンパンと食パンが歩いていました。そこで「オーイ!キミたち!」と声をかけましたが、振り向いてくれたのは、食パンだけでした。
どうしてでしょうか。食パンには耳があったから。イエス・キリストは、民衆に向かって語りかけるとき、しばしば言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」
イエスは深遠な真理を民衆に理解させるために、当時の人々の身近にある自然や生活の出来事を例えに用いて話されました。そんな例え話の中で有名なものの一つが「4種類の土地と種まき」の例え話です。
種をまく人が同じ種をまいたのですが、土地の状態によって結果が全く違ったのです。「種」は「神のことば」を表し、「土地」は「聞く人々の心の状態」を表しています。
第一の「道ばた」とは「かたくなな心」です。神のことばを聞いても、偏見や誤解や無知の故に、その人の心に何の影響も与えないのです。
第二の「岩の上」とは「浅はかな心」です。この人は神のことばを聞くと喜んで応答しますが、それは一時的な感情から出たものなので、少し困難や試練が来るとすぐに身を引いてしまうのです。
第三の「いばらの地」とは「世の心づかいの多い心」を表しています。しかし「世の心づかいの多い心」がどうしてみことばの実を結ばないのでしょうか。
「世の心づかい」とは、人に良く思われたいという願望が根底にありますので、「神のことば」より「人のことば」を優先させてしまうのです。
第四の「良い地」とは「聞く耳のある心」を表しています。イエスご自身の説明によれば、「聞く耳のある心」の人とは「立派な良い心でみことばを聞いてそれをしっかり守り、忍耐して実を結ぶ」人のことです。
詩篇の作者も「聞く耳のある心」の人のことを次のように言っています。
「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ(思い巡らす)。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩篇1:2、3)
またこの例え話は、種をまく人たちへの励ましでもあります。種をまく人は、自分がまいた種の全てが実を結ぶわけではないことを知っていました。しかしだからといって、それにガッカリして種をまくのをやめたりはしません。
種をまく人は、自分のまく種の中から確実に実を結ぶものがあることを知っていました。
マタイの福音書では「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結びます」(マタイ13:23)と約束しておられます。ですから「種をまく」こと。神のことばを語ること。福音宣教に励むことを決してやめてはいけません。
まいた種の中から必ず実を結ぶ種があるからです。
19世紀の初頭、スコットランドの田舎の教会に一人の牧師が赴任して来ました。彼は一生懸命伝道をしましたが、結局その年、彼の働きによって信仰を持ったのは一人の少年だけでした。
彼がまいた種は、ほとんど実を結ばなかったのです。教会の人たちはこの結果に失望し、その責任はこの新任牧師のせいであると結論付けて、この牧師を解任しました。この牧師の名前は分かっていませんが、この牧師によって信仰に導かれた少年の名前は歴史に刻まれています。ロバート・モファット(Robert Moffat、1795〜1883)です。
彼は1816年、南アフリカへの宣教師となり、カラハリ砂漠の近くに49年間滞在し、多くのアフリカの人々をキリストに導き、現地の言語に聖書を翻訳したり、農業やかんがいを指導し、キリスト教の歴史にその名を残す偉大な神の僕となったのです。
また、モファットの影響を受けたディビッド・リビングストン(David Livingstone、1813〜73)は、彼もまたアフリカ大陸への宣教師となるのです。ちなみにリビングストンは、モファットの娘と結婚しています。リビングストンの働きを通しても、多くのアフリカの人々がキリストの救いにあずかったのです。
それからさらに数十年後、医者への道を志ざしていた一人の米国人高校生が、ロバート・モファットの伝記を読んで宣教師の志を立てます。
ウォルター・ランバス(Walter Lambuth、1854〜1921)。彼はやがて、日本への宣教師としてやって来て、ミッションスクールを設立します。それが広島女学院や関西学院です。あの名もないスコットランドの牧師がまいた種は今日、実に豊かな実を結んでいるのです。
パウロの励ましの言葉です。「ですから、私の愛する兄弟たちよ(姉妹たちよ)。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(1コリント15:58)
◇