「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(1ペテロ1:8、9)
昔スペインで、ユダヤ人が迫害されたことがありました。一人のユダヤ人のラビが逮捕され、裁判を受けることになりました。ラビは冤罪で逮捕されたのですが、裁判官は何とか有罪にしたかったので、さまざまな証拠を捏造(ねつぞう)しますが、今一つ決め手に欠けました。
そこで裁判官はラビに言います。「お前は神を信じるか?」
「ハイ!もちろんです」とラビは答えます。
「よし、それでは有罪か無罪かを神に決めてもらおう」。そう言って一つの提案をします。
「今、この箱の中に2枚の紙が入っている。お前が無罪と書いてある紙を引いたら無罪だ」。実は、裁判官は2枚とも有罪と書き、どちらを引いても有罪にしようと考えたのです。
賢いラビは箱の中から素早く1枚の紙を取り出すと、あっという間に飲み込んでしまった。「何をするんだ!それじゃどっちを引いたか分からないじゃないか!」と裁判官が怒ると、ラビは平然として言いました。
「裁判官殿、大丈夫です。箱の中に残っている紙をご覧になれば、私が引いた紙が分かります」。そう言うと、ラビは箱の中から「有罪」と書いてある紙を取り出してみんなに見せました。
「これで私の引いた紙が無罪であることが分かります」。裁判官は仕方なくラビの無罪を宣言し、釈放しました。まさに「知恵は身を助ける」ということでしょうか。
イエスは当時の宗教学者たちの悪意に満ちた質問に対して、「神の知恵」をもって対応されました。ある時、イエス・キリストは中風の人に向かって言われました。「友よ、あなたの罪は赦(ゆる)されました」。当時の人々は、病気は罪が原因だと考えていたので、早速宗教学者たちがかみついてきたのです。
「ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう』」
確かに「罪の赦し」は神だけの専売特許でした。ですから「イエスは神である」ことが見えない彼らにとっては許し難いことだったのです。
それは今日においても同じです。イエス・キリストを優れた宗教家、卓越した思想家、あるいは偉大な人生の教師として認める人はいます。しかし、イエス・キリストを神と認め、「救い主」として受け入れ、「自分の罪を赦してくださる方」として礼拝することは、心の目が開かれた人にだけできることです。
そこでイエスは、律法学者やパリサイ人たちの理屈を見抜いて言われます。「『あなたの罪は赦された』と言うのと『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」
これはユダヤ教のラビが用いる教授法の一つで、質問には質問で答えるというものです。「どっちがやさしいか?」もちろん「あなたの罪は赦された」と言う方が簡単です。言葉だけなら、いくらでも言えます。しかし「起きて歩け」というのは結果が求められるので、こっちの方が難しいのです。
そこでイエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われたのです。
ここにもラビ的教授法が見られます。より難しいことをすることで、やさしいことを証明するという手法です。中風の人は直ちに癒やされ、自分の寝床をたたんで神をあがめながら帰っていきました。
ここで「罪の赦し」ということを正しく理解するために、大切なことをいくつか確認しておきます。
(1)全ての罪は、究極的に神に対して犯されるものである
古代イスラエルの王ダビデが姦淫と殺人の罪を犯した後に、神に対して次のように告白しています。
「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」(詩篇51:4)
ダビデは部下のウリヤの妻を奪い、ウリヤを殺しました。ダビデは決して、ウリヤに対して犯した罪を軽く考えていたわけではありません。しかしダビデは、罪の持つ本質を見抜いていました。どんな罪も、根本的には神に対して犯されるものです。
一つの例えを用いて説明してみましょう。
一人の青年が強盗、殺人の容疑で逮捕されて、今日は裁判の日です。傍聴席には、息子の身を案ずる母親の姿があります。手錠をかけられた青年が法廷に入ってきて、傍聴席で人目から隠れるように座っている母親の姿を発見します。
そして彼は心の中でつぶやきます。「母さん、ゴメン。赦してくれ」。もちろん、青年のこの「ゴメンナサイ」という言葉の意味は「お母さんを悲しませるようなことをしてしまってゴメンナサイ」という意味です。
同じように、全ての罪は私たちに生命を与え、人生を備えてくださった神を悲しませるものであり、従って全ての罪は神に対してなされたものといえます。
(2)罪の赦しは、神にだけできることである
人は、人を罪に定める権威を持っていません。また人は、人の罪を赦す権威も持っていません。ある時、姦淫の現場で捕らえた女性を人々が石打ちにしようとしたとき、イエスは言われました。「あなた方のうち、罪なき者がまず最初に石を投げなさい」。すると、人々は石を置いて1人去り、2人去り、そして誰もいなくなりました。
人は誰でも皆、罪を犯したことがあるのです。人の罪を責める資格などありません。まして人を罪に定める権威などありません。罪のない神だけが人を罪に定め、人の罪を赦すことができるのです。
ですからイエスは言われました。「わたしは地上で罪を赦す権威を持っている」。従って、イエスから「あなたの罪は赦された」と言われたら、誰もそれを否定することも取り消すこともできないのです。
これがイエス・キリストの福音です。イエスを信じる者は誰でも罪の赦しを受けられます。最後の審判をこわごわ待つ必要はありません。「罪が赦された」ということは、もう裁かれないということです。
「御子を信じる者ははさばかれない」(ヨハネ3:18)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)
この後、中風の人は神をあがめながら自分の家に帰ったのです。「神に赦されている、神に愛されている」という確信は、人を自由にし、解放し、喜びにあふれさせ、力強く歩ませるのです。
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