「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」(ヨハネ16:13)
ある所に、天才的なニセ札作りの名人がいました。ある時、彼は100ドル札のニセ札作りに挑戦しました。自分の全能力とあらゆる経験を注ぎ込んで、自分でもほれぼれするような完璧な100ドル札を作り上げました。仲間に見せても、どっちがどっちか見分けがつかないと言ってくれました。
ところがそのニセ札を使ったところ、すぐにバレて捕まってしまいました。プライドをひどく傷つけられたこの男は捜査官に、彼が見本にした札と彼が作ったニセ札とを並べて、どこに違いがあるか指摘してみろと言いました。
すると捜査官は「この2枚に違いはない。全く同じだ。しかし、お前が見本にした札がそもそもニセ札なんだ」と気の毒そうに教えてくれたのです。そもそも見本がニセ札なら、いくらそっくりに作ってもニセ物に過ぎません。
信仰もよく似ています。信仰の対象が間違っていれば、いくら熱心に追求しても真理にたどり着くことはできません。
イエスは言われました。「弟子は師以上の者ではありません」。当時は図書館もなく、マスメディアも未発達の時代です。師の下で学ぶ弟子にとって、師の知識が全てであり、師と同じ水準に達することが最終ゴールでした。従って、弟子にとっては誰を自分の師として選ぶかは重大問題でした。
イエスは、パリサイ派の律法学者を師と仰ぎ従っていくことは「盲人が盲人の手引き」をしているようなものであると言われ、「ふたりとも穴に落ち込む」と警告なさいました。また、律法学者たちは、律法に従わない人々を厳しく責め立てているけれど、自分も同じ、いやそれ以上の罪を犯していることに気付いていないと戒めておられます。そのことを「あなたは兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁に気が付かないのですか」(ルカ6:41)という言葉で非難されているのです。
誰を人生の師として仰ぎ、誰の言葉に従って生きるか、これはまさしく大問題です。多くの人生の教師たちや宗教家たちは言います。「私は真理を知っている。だから私から学びなさい!」「私は道を悟った。だから私の話を聞きなさい!」「私はいのちへの道を見つけた。だから私と共に歩みなさい!」
しかしイエスは言われました。「わたしが道です。真理です。いのちです」
この2つの立場は、一見似ているようで全く違います。例えば「私は米国の大統領をよく知っている」と言うのと、「私は米国の大統領である」と言うのとは全く違うのと同じです。従って、真理や道やいのちを求める人は、イエスを師として仰ぎ従っていけばいいのです。
亀谷凌雲(かめがい・りょううん)さん(著書『仏教から基督へ―溢るる恩寵の記』)は、富山県新庄町の浄土真宗の寺の息子として生まれます。若い頃から哲学に興味を持ち、高校時代には西田幾多郎から宗教哲学を学び、東京帝国大学で井上哲次郎と波多野精一から哲学を学び、姉崎正治から宗教学を学びます。その結論として、仏教に疑問を持つようになります。
卒業後、住職の仕事をしながら中学校教師となります。その頃、教会に行き、神、罪、救いの話を聞き、神を求めるようになりました。そして1917(大正6)年9月23日、宣教師より洗礼を受けました。最初は住職の仕事をしながら教会に通っていましたが、決心して住職の職を辞します。もちろん周囲の人々はびっくりして、大反対を受けます。
しかし彼の決心は堅く、その後神学校に入学し、卒業後1919年に富山新庄教会を設立しました。そして、キリストは仏教の破壊者ではなく完成者であるという確信を持って、富山での郷里伝道に生涯をささげたのです。
亀谷凌雲牧師も、イエス・キリストに出会うことによって真理へと導かれていったのです。
◇