「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です』」(マタイ9:12)
文明が届いていない南の島に探検家が上陸すると、島の人々は全員そろってこの探検家を歓迎してくれました。探検家はお礼のしるしにと言って、全員集合の記念写真を撮ってあげます。
ポラロイドカメラで撮った写真は数分で出来上がり、それを島の首長に渡すと、写真なんて見るのは初めてなので興奮しながら皆に見せて回ります。
「これはお前だな」「こっちはお前の顔だな」。全員の姿を確信し終わった首長は、ハタと困ってしまいます。「この真ん中に座って偉そうな顔をしてる醜男は誰なんだ。こんなやつはこの島にいないぞ」
もちろんそれは首長自身なのですが、彼は今まで自分の顔を見たことがないので、それが自分だとは気が付かなかったのです。自分の本当の姿が分からないのは、文明人も同じかもしれません。
聖書の中にも、自分の本当の姿が見えていない憐(あわ)れな人々が登場してきます。当時の宗教家たちが、「汚れた人々」と思われていた人々と食卓を共にしているイエスを非難しました。つまり、イエスが本当にメシアだったら彼らの汚れをよく知っているはずだから、一緒に食卓に着くことはないはずだと言ったのです。
それに対してイエスは言われます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです」
宗教家たちは、自分たちが霊的に病んでいるのに病んでいるという自覚がなかったので、イエスのもとに来ようとしませんでした。しかし、取税人や遊女たちはその自覚があったので、霊の医者であるイエスのもとに来たのです。
これは、昔も今も変わらない真理です。自分が霊的に病んでいると自覚した人だけがイエスの救いを求めるのです。
一般的に、人が医者に行くのに4つのステップがあります。
(1)病気だという「自覚」
(2)治りたいという「願望」
(3)自分では治せないという「判断」
(4)医者に対する「信頼」
病気だけれど、自覚症状がないと放っておく。そして、どんどん症状が悪化し、気が付いたときには手遅れということになります。イエスの招きも、拒み続けていると、どんどん心がかたくなになって、もはや神のことばが響かなくなってしまいます。
映画「ロッキー」シリーズの脚本を書き、自ら主演したシルヴェスター・スタローンは、カトリックの家庭に生まれました。ところが1976年、「ロッキー」第一作の大成功により富と名声を得ると、私生活が荒れていきました。二度の離婚を経験し、誘惑に陥り、道を誤ってしまいます。
スタローンはそんな中で、富や名声は真に自分を幸福にしないということを悟ります。そして自分の人生を立て直したいと考え、悔い改めて信仰を回復します。
その後1997年、ジェニファー・フレイヴィンという女性と結婚し、家族で教会に通うようになります。スタローンは無名時代、映画のオーディションに50回以上落ち、生活のためにポルノ映画にも出演したことがあります。
ハリウッドのスターになったとき、かつて出演したポルノ映画の権利を買い取らないかという話がありました。しかしスタローンは「人生はキリストによって新しくされるのだから、自分の力で過去を抹消しようとする必要はない」と言って、権利は買い取りませんでした。
「どんな過去があろうとも大丈夫です。神に心を向ければ、生まれ変わることができます」とスタローンは言います。
さらに「教会なしの人生は、まるで舵の無い船のようである。自分一人でできると思ったら大間違いである。例えば、体を鍛えたいならば、トレーニングジムに行って専門家から指導を受ける必要がある。信仰に関しても同じことが言える。教会は魂のトレーニングジムであり、牧師はトレーナーであり、信仰の成長を助けてくれる。自分一人の力では到達できないところへ導いてくれる。多くの人は神と一対一の関係を持っているから大丈夫だと言う。それは教会に行くことをおっくうがっているだけの言い訳である」と言い、スタローンは教会生活の大切さを強調しています。
シルヴェスター・スタローンもまた、自分の霊的病気に気付き、医者であるイエス・キリストのもとへ行って健康を回復した一人なのです。
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