「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)
幼稚園に通う男の子が、母親に質問しています。「ネー、ボクはどうやって生まれてきたの?」母親はまだ本当のことを教えるのは早いと思ったのでしょう。「あなたはコウノトリさんが運んできたのよ」
「フーン、じゃーお母さんはどうやって生まれたの?」「お母さんは竹やぶの竹の中からよ」
「ヘーッ、かぐや姫みたいだね。じゃーおばあちゃんは?」「おばあちゃんは桃から生まれたのよ」「ワー、桃太郎みたいだネー!」
次の日、この男の子は幼稚園に行くと、早速先生に報告しました。「先生、ボクの家ではネ、3代続いて正常な妊娠と出産がなかったんだよ」
聖書の中に、不思議な妊娠と出産をした女性が登場します。処女なのに妊娠したのです。聖書は彼女のことを「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった」と紹介しています。
マリアが御使いガブリエルから「受胎告知」されたのは、ヨセフとはいいなずけの契約を交わして正式に夫婦とはなっていたのですが、まだ同居する前の時です。ですからマリアは言います。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」
それに対して御使いは「この一連の出来事は神の計画であり、あなたは神の素晴らしい恵みにあずかるために選ばれたのだ」と告げます。人類の罪のために身代わりになってくださる救い主には、少なくとも2つの条件が必要でした。
(1)私たちの罪の身代わりとなって死ぬためには、自らも同じ人間でなければならない。
(2)人類の罪の償いをするためには、その人自身に罪があってはいけない。
従って、通常の妊娠と出産によって生まれてきた者の中には、この条件を満たす者はいません。ですから、聖霊によって処女が身ごもるより他に、方法はなかったのです。マリアはこの神の計画に用いられる女性として一方的に選ばれたのです。
御使いはマリアに言います。「恐れることはありません、マリア。あなたは神からの恵みを受けたのです」。それに対するマリアの応答は「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」
マリアは自分の体を丸ごとささげ、自分の生涯全部をささげて「主よ、どうかご自由にお使いください」と差し出したのです。ここに、マリアの見事な信仰の従順の姿を見ることができます。マリアのこの信仰の応答の言葉は、実は御使いガブリエルのある言葉に対するものでした。それは「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」という言葉です。
聖書を見ると、神が自分の働きに人を用いられるとき、しばしばこの表現が使われていることに気付きます。
・アブラハムに対して(創世記21:22)
「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」
・イサクに関して(創世記26:28)
「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです」
・ヤコブに対して(創世記28:15)
「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り・・・決してあなたを捨てない」
・ヨセフに関して(創世記39:2、3)
「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり・・・主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た」
・モーセに対して(出エジプト記3:12)
「わたしはあなたとともにいる・・・」
・ヨシュアに対して(ヨシュア記1:5)
「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」
・ダビデに対して(2サムエル7:9)
「あなたがどこに行っても、あなたとともにおり・・・」
そしてマタイの福音書28章でイエスは、弟子たち(私たちも)に「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と宣教命令を与え、その後で言われます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」
「主がいつも私とともにおられる」と実感できる唯一の道は、全身丸ごと、全生涯を主にささげて、マリアのように「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と告白しながら歩んでいく道です。
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