「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)
ある大学病院で、医学生のための法医学の授業がありました。
教授が学生たちに言います。「法医学のプロになるためには、2つのことが重要です。1つは死体を怖がらないことです」。そう言うと、教授はいきなり目の前の死体のお尻の穴に指を入れ、その指をなめてみせます。
そして、あぜんとしている学生たちに言います。「さあ、キミたちも勇気を出してやってみよう」。学生たちは恐る恐る近づき、一人一人勇気を振り絞って言われた通りにします。
全員が終えるのを見た教授は言います。
「プロになるための2つ目に重要なことは、鋭い洞察力である。例えば、今、私がこの死体のお尻の穴に中指を入れて、人差し指をなめたことに気付いた者は、この中にどれくらいいたかな?」
聖書に「人の体の穴に指を差し入れてみなければ、決して信じない」と言った人物が登場します。その人は、イエス・キリストの弟子の一人、トマスです。
イエス・キリストが十字架につけられて殺されたとき、弟子たちは恐れて戸を閉め、鍵をかけて隠れていました。すると、そこに突然イエスが現れ、「シャローム」(平安あれ)と言ってご自分が復活したことを示されました。弟子たちはそれを見て、喜びにあふれます。
しかし、そこにトマスだけいなかったのです。後に、イエス・キリストの復活を他の弟子たちから聞かされたトマスは疑い、そして言います。「私は、その手に釘の跡を見て釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じない」
8日後に、今度はトマスも共にいる所へ再びイエスは現れます。「トマス。わたしの十字架の釘と槍の跡に指を入れて確かめなさい」。それを聞いたトマスは、すぐに告白します。「私の主、私の神」
この告白は、イエスこそ全き従順をもって服従すべき絶対的な主権者としての主であり、神であることを認める告白です。この素晴らしい告白をしたトマスに、イエスは言われます。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」
信仰の本質は「見ないで信じること」です。復活されたイエスを直接その目で見ることができたのは、イエスの弟子たちをはじめ、ごく限られた人々だけでした。それ以後の人々は皆、「イエスは私の罪のために十字架で死なれ、3日目に復活されたのです」ということを聞いて信じているのです。
使徒ペテロも、その手紙の中で次のように書いています。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(1ペテロ1:8、9)
「見ないで信じる」信仰の本質を、聖書は次のように定義しています。「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」。「望んでいること」とは「目に見えないもの」です。つまりそれは「天にあるもの」あるいは「永遠の事柄」なのです。
イエスが言われた「見ないで信じる人」とは、神が約束された「目に見えない永遠の事柄」を確信しながら歩む人のことです。従って、トマスも確かにイエスを目の当りにしてその復活を信じたのですが、その後は「見ないで信じる」信仰の歩みをしたのです。
その後のトマスの歩みは、どんなものだったでしょうか。2世紀に書かれた『使徒ユダ・トマス行伝』によると、イエスの弟子たちがエルサレムで宣教会議を開き、誰がどこに行くかをくじ引きで決めたところ、トマスはインドへのくじが当たりました。しかし、トマスはインドへ行きたくなかったので「言葉が通じない」「気候が体に合わない」などさまざまな理由を付けて断り続けます。
ある夜、イエスが現れてトマスに言われます。「恐れるなトマス、わたしはあなたと共にいる」。しかし、トマスはイエスに言います。「主よ、インド以外ならどこへでも参ります」
しばらくして、インドの王様が大宮殿を建てることになり、人夫を求めてユダヤに使者を遣わしました。この使者にイエスは近づいて言われます。「あなたは人手がいるでしょう。わたしのしもべの一人をインドへ送りたいがどうだろうか」。それで話がまとまって、契約書を交わしました。「わたしイエスは、わたしのしもべトマスをインドの王に売ったことをここに証明する」
そこで使者は、トマスのところへ行き尋ねます。「向こうにおられるのはおまえの主人か?」トマスは答えます。「はい、あのお方は私のご主人様です」。すると、使者は契約書を見せて「今、私は彼からおまえを買った。これからインドに連れていく」。トマスはその契約書をジーッと見ていましたが、やがて静かに答えました。「分かりました。あのお方がそれを望まれるなら喜んで従います。あのお方は私の主人ですから」
トマスがイエスに対して「私の主、私の神」と告白したのは、そういう意味でした。伝承によると、トマスはこの後、インドへ宣教に向かいます。その途中バビロンで最初の教会を建て上げ、次にペルシャでも多くの人々をキリストの救いに導き、そしてインドでその生涯を主イエスにささげました。
インド南部のケララに最初の教会を建て上げ、さらに多くの教会を建て上げたのです。最後は手足を切り取られ、槍で刺されて全身血だるまになりながらも最後まで目を見開き、天を見上げて永遠の世界を思いながら召されていったのです。トマスも「見ないで信じる」信仰を全うしたのです。
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