「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます」(ルカ6:38)
あるユダヤ人の男の話です。彼の兄が重い病気に倒れたので、早く回復できるようにユダヤ教のラビの所へ行って祈ってもらいました。お礼を言って帰ろうとしたとき、ラビが彼に驚くような言葉をくれました。
「どうか、もっと悩みがありますように」。兄の病気のことで非常に悩んでいるのに、もっと悩めとは何事かと思いながら「どうしてそんなことを言うのですか」と聞くと、ラビの返事は含蓄に富んだものでした。
ラビいわく、「一つの悩みだけに心を奪われると問題をますます深刻化させ、かえって身を滅ぼします。だから多くの悩みを抱えている方が気分が分散していいからだ」
それを聞いてこの男、兄のことばかりを心配していてろくろく仕事に手がつかなかったのが、肩の荷が下りて精神的にとても楽になったといいます。
これは逆説めいた話ですが、ユダヤ人が悩みをどのように考え、どのように対処しているかをよく教えてくれる話です。
イエス・キリストも真理を教えるのにしばしば逆説的な表現で語られました。例えば「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」(ルカ6:20)。「貧しい者」と訳されている言葉は、厳密には ”物乞いをする人” という言葉です。「幸いです」と訳されている言葉は、本来は「何と幸いなことでしょう」という感嘆の言葉です。
しかしどうして「貧しい者が幸い」なのでしょうか。旧約聖書の中には「貧しいから幸いである」という考え方は出てきません。むしろ逆に、豊かさこそ神の祝福の結果であるといわれています。
ダビデは言います。「若かったころも年老いた今も、私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを」(詩37:25)。ですから、イエス・キリストが「貧しい者は幸いです」と言われたとき、当時の人々には理解できない教えだったのです。
もちろんこれは、貧しければ大金持ちの人のように、お金をどこに預けようかとか、税金はどうするかとか、相続はどうするかなどと思い煩わなくて済むから気楽でいい、だから貧しい者は幸いだという話ではありません。
イエス・キリストがここで「貧しい者は幸いである」と言われたのは、「神のためにあえて貧しく生きる道を選んだ者は幸いである」という意味なのです。
では、イエス・キリストのために貧しくなった人はなぜ「幸い」なのでしょうか。イエスはその理由として「神の国はあなたがたのものだから」と言われます。それは ”イエスのために貧しくなった人は、天国へ行ってから満ち足りて笑うようになるから幸いである” という意味ではありません。
「神の国はあなたがたのものだから」というのは、未来形ではなく現在形です。つまり「今、ここで神の国はあなたがたのものである」とイエスは言われるのです。
「神の国」とは、神がお造りになった全てのものや、私たちの人生に起こる全ての出来事に対して神の絶対的な支配があるということです。イエス・キリストのために喜んで犠牲を払えば払うほど、神の支配や神の祝福が豊かに及ぶということです。
だから「貧しい者は幸い」なのです。従って次の言葉も同じことを教えているのです。
「人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し(ユダヤ教の会堂から)、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(ルカ6:22、23)
「喜びなさい」は命令形です。「躍り上がって」これは、子牛や羊が飛び跳ねるというときに使われる言葉です。
なぜそんな喜び方をするのか。「天においてあなたがたの報いは大きいから」。「天」とは「天国」ではなく「神」においてという意味です。「報い」とは「報酬、賃金」という意味です。
ある人々が誤解なさっているように、キリスト教は何の報いも当てにせず、何の利益も求めずに黙々と良い行いに励むことを教えているのではなく、神からの豊かな報い、ご褒美を頂けることを期待して励むことを教えているのです。
では、その「報い」は、いつ、どこで頂けるのでしょうか。この点について、イエスはハッキリ言われました。
「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます」(ルカ18:29、30)
「捨てる」とは、優先順位を教える言葉です。
今から200年ほど前のことです。ドイツのデュッセルドルフの美術館で、一人の青年貴族が一枚のキリストの絵の前に来ると、じーっと眺めながら動かなくなりました。そのキリストが十字架につけられた絵には、ラテン語で一つの言葉が書かれていました。
「私はあなたのためにこのようにした。あなたはわたしのために何ができるか」。彼はこの言葉を何度も心の中で繰り返していると、自然に涙があふれてきました。
やがて、閉館時間になったことを係の人が告げに来ました。彼はこの日、この絵の前でキリストのために全てをささげる決心をしました。そして、権力や富や名声が渦巻く上流階級を離れて、キリストの弟子としての道を歩み始めました。
この青年の名はツィンツェンドルフ伯爵です。彼は、後にボヘミアで迫害されてザクセンに逃れてきたクリスチャンのグループ「モラビア兄弟団」を、自分の領地のヘルンフートに住まわせて保護しました。
モラビア兄弟団は多くの宣教師を派遣する非常に熱心なグループです。後に英国の大きなリバイバルで用いられたジョン・ウェスレーを回心に導いたのも彼らでした。
そして、ジョン・ウェスレーが英国で始めた神の大きな働きは、欧州中に広がり、北欧にも及びました。ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、その中で海外宣教の熱い思いを与えられた若者たちが、この日本にもやってきました。
一人の人がキリストのために貧しくなるとき、神はそれを受け入れ、大きな働きに広げてくださり、その人に「この世」でも「来たるべき世」でも豊かな報いを与えてくださるのです。
◇