「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。』」(ヨハネ11:25、26)
100歳以上の人を「センチュリアン」と呼ぶそうです。今日、この日本に100歳以上の人が9万人以上います。
あるおばあさんが100歳の誕生日を機に「水泳教室に通いたい」と言い出しました。
家族は皆、大反対です。「オバアちゃん、そんなのを “年寄りの冷水” って言うんだよ」。「大丈夫! 冷水じゃなくて温水プールだから!」
訳の分からないことを言いながら周囲の反対を押し切って、おばあさんは水泳を習い始めました。「オバアちゃん、でもなんで水泳なの。健康のためなら他の方法だってあるのに」と家族が聞くと、「死んだら、あの世に行くのにさんずの川を渡るそうだけど、ワタシャ泳いで渡りたい!」と言うのです。
目標がハッキリしているから上達も早い。5メートル、10メートル、15メートルと泳げる距離が伸びていく。そしてもうすぐ25メートルのプールの端から端まで泳げるところまできました。
それを聞いたお嫁さんが、水泳教室の先生に電話をしました。「先生、オバアちゃんに泳ぎは教えても、ターンして帰ってくるのは教えないでください」。このお嫁さん、せっかくオバアちゃんがあの世に行ったのに、また帰ってこられたら困ると思ったのでしょう。
しかし、ターンを習ってもそう簡単には帰ってこられませんので安心してください。新約聖書には3回だけ、死んだ人が生き返ったという奇跡の物語が記されています。ヤイロの娘と青年ラザロの生き返り、そしてナインの町での出来事です。
当時は、死んだ人は町の外に連れ出して葬りました。人々は棺をかつぎ、列をなして大声で泣きながら、死人を町の門から外へ運び出そうとしていました。
「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた」(ルカ7:12)
「やもめ」とありますから、すでに夫に先立たれ、そして今また「ひとり息子」を失ってしまったのです。大勢の人々が母親を慰めに集まってきましたが、彼女には真の慰めにはならなかったことでしょう。愛する人の死を前にするとき、人の慰めは無力です。
日本語訳の聖書には出てきませんが、原文ギリシャ語には「見よ!」という言葉が入っています。「イエスが町の門に近づかれると見よ・・・」
2つの現実に「目を向けよ、心を留めよ」という意味で、「見よ!」という言葉を入れたのではないでしょうか。その2つの現実とは?
(1)「死の現実を見よ」
私たち人間は、いつも死と直面しながら生きているという現実があります。新聞の死亡欄に人の名前が載らない日はありません。そして、いつか私たちの番も必ず来ます。ですから、これまで人類は何とかして死の問題を解決しようともがいてきたのです。そしてさまざまな宗教を生み出してきました。
今から約2400年前のお釈迦(しゃか)さんは、人間は死の中に閉じ込められているという現実を知り「どうしたら死ぬことが怖くなくなるのか」と考えて出した答えは、「死ぬのが怖いと思うのは、死にたくないと思うからだ。死にたくないという欲を持つから死が怖いのだ。だから人は死ぬものだと諦めなさい」というものでした。この「諦め」を「悟り」というのです。
中国では、孔子が「死とは何ですか」と問われて、「私はいまだに生きるということすら分かっていない。まして、死について分かるはずがない」と答えています。
死とは何か。死後の世界はどうなっているのか。この答えは、死という暗闇に閉じ込められている人には誰にも分からないのです。この死の問題の解決は、外側から誰かがやってきて扉を開けてくれる以外に道はないのです。
このナインの町に住む「ひとり息子」を失ったやもめの女性も、絶望と大きな無力感に襲われていたことでしょう。しかし、イエス・キリストとの出会いが彼女の人生を大きく変えることになりました。
「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた」。「かわいそうに思う」とは、はらわたがよじれるほどの痛みという意味です。
「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた」。イエスは、誰も近づくことのできない死の世界に手を伸ばし、その暗闇の世界の扉を開かれたのです。
「すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」。著書のルカは「見よ!」と言って “死の現実” に目を向けさせた後に、もう一つのものに対しても「見よ!」と言うのです。
(2)「イエス・キリストを見よ」
聖書は「人間は死んで終わりではない。死後にも人間の魂は意識を持ったままで永遠に存在し続けるのである。従って、死後どこで永遠を過ごすのかが大問題となってくる」といいます。そして、死後の世界のいのちがあることの証明として、イエス・キリストは十字架にかかって死んだ後、3日目に死の力を打ち破って復活されたのです。
なぜイエス・キリストの教えが、イエスの死後、当時の世界に急に受け入れられて広まったのかといえば、それはイエス・キリストの復活という事実の故でした。
当時の人々はキリストの復活を巡り、弟子たちの主張と反対者たちの主張の両方を聞くことができました。人々は弟子たちにありとあらゆる質問をしたことでしょう。もし弟子たちの証言に、少しでもおかしな点、不確かな点があったのなら、人々は関心を失っていったことでしょう。
しかし実際に起こったことは、多くの人々がイエス・キリストを信じ、ローマ帝国をひっくり返していったということです。
人間の肉体は朽ちていっても、魂は永久に残ります。キリストは罪の問題を解決するために十字架で死んでくださり、死の問題を解決するために復活されたのです。誰でもこのイエス・キリストを信じるなら、罪が赦(ゆる)されて永遠のいのちを頂き、天国に行くことができるのです。
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