「主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」(2テモテ4:17)
「かます」という魚を使った実験の話です。
水槽の中に大きなガラスの板を入れて間仕切りし、一方にかますを1匹入れ、反対側にかますの大好物の小魚をたくさん入れます。
かますは小魚目がけて突進しますが、ガラスの板にぶつかって跳ね返されます。再挑戦しますが、また跳ね返されます。
これを何度も繰り返しているうちに、かますは失望して、もう小魚に向かうことをしなくなります。
その後、水槽からガラスの板を抜き取ります。小魚はかますの周囲を自由に泳ぐのですが、びっくりすることに、かますは小魚を無視します。
「自分はもう小魚に近づけない」と思い込んでしまったのです。そして、かますは大好物の小魚に囲まれたまま、飢え死にしてしまいます。それは、失望感があまりにも大きかったからです。
聖書にも、何度も何度も期待を裏切られた結果、生きる意欲を失ってしまった男が登場します。イエス・キリストは、どのようにしてこの男の人を立ち直らせたのでしょうか。
エルサレムの羊の門の近くに「ベテスダ」と呼ばれる池があり、その池の周囲に多くの病める人々が集まっていました。集まった理由は、この池にまつわる一つの伝説にありました。
その伝説とは「主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者はどのような病気にかかっている者でも癒やされる」というものでした。
うわさがうわさを呼んで「大勢の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たち」が周囲に詰めかけていたのです。そこに集まっていた人々のリストを見ると「これは私の状態に似ているなぁー」と思うことが必ずあると思います。
「病人」これは病気の人一般を表す言葉ではなく特別な専門用語で「神経系にかかわる病気」を意味します。自分の手足が不自由で動きにくい病気です。自分で意図したように体が動かないのです。
ある人は、体ではなく内側の心の世界で、自分の意図したように動けなくて悩んでいます。「赦(ゆる)さねば、赦した方がいい」と分かってはいるけれど赦せない。悪い習慣や癖から抜けられなくて悩んでいる。もし自分の中にそういう不自由さを感じているなら、あなたもこの「病人」の仲間です。
「盲人」文字通り、肉体の目が見えない人です。ある人は、肉体の目は見えていても、心の目が見えていないのです。「人生の目的や意味が分からない」「この世界を造られた神が分からない」「私を愛してくださっている神が分からない」。そうなら、あなたも「盲人」の仲間です。
「足のなえた者」これは、単に歩けない人のことではなく「真っすぐに歩こうとすると、滑ってどうしても足を踏み外す」という意味です。自分の思い通りに人生を歩めない人、正しい道を歩もうと思っても、悪の道へ踏み込んでしまう人です。
「やせ衰えた者」これも単に「やせた人」のことではなく「意欲を失った人」のことです。人生を諦めてしまい、投げやりになって「もうどうでもいいや!なるようになるさ!」と、生きる意欲を失ってしまっている人です。
これらのリストを見ながら、どこかで自分の姿と重なって見える部分はありませんか。イエス・キリストは、いつでも助け主、癒やし主です。求めれば、あなたのそばに来てくださいます。
さて、このベテスダの池のそばに「38年もの間、病気にかかっている人がいた」のです。イエスはその人に質問します。「よくなりたいか」
病気の人に向かって「よくなりたいか」とは、変な質問だと思いませんか。直訳すると「あなたは治されたいですか」とイエスは聞かれたのです。
イエスは「わたしはあなたを助けることができるけれど、あなたはそれを受け取って良くなることを願っているか」と聞かれたのです。しかし、この人の答えは意外なものでした。
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」
この人は、何が言いたいのでしょうか。
「自分がいつまでたっても治らないのは、私を池に入れてくれる人がいないからです。ここにいる人間は皆、自分のことしか考えない自己中心的な人々で、私のことなんか少しも気にかけてくれないのです。だから私は、いつまでもこのままなのです」
つまりこの人は「自分が治らないのは、ここにいる人たちのせいなのだ」と周囲の人々を責めているのです。
この人のような生き方をしている人を時々見かけます。「私が幸せでないのは夫のせいです」「夫が変わってくれれば、私は幸せになれるのに!」「夫のせいだ、夫が悪い、夫が・・・夫が・・・」。こういう妻のことを、無駄ぼえを繰り返す「オットセイ妻」というようです。
この「責任転嫁」をしている人に対して、イエスは一言命令されます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」
「他人のせいでこうなった」と嘆いている人は、自分の人生の幸・不幸を他人に依存しながら生きている人です。イエスはこの人に言われたのです。「周りの人がどうであれ、あなたは自分の人生を生きよ。自分の人生の幸せは自分の手でつかみ取りなさい」
そして、このイエスの言葉を理解したその人は、すぐに床を取り上げて歩き出したのです。もちろんこの時、イエス・キリストの超自然的な癒やしの力が働いたのですが、この男はイエスの言葉を受け取り、肉体的にも精神的にも自分の足で歩み始めたのです。
盲目の歌手ジェネファー・ロスチャイルドさんは、生まれつき目は不自由、しかし信仰深い両親のもとで愛情をいっぱい受けて育ちました。高校卒業後、両親は自宅から通える地元の大学を勧めましたが、彼女は音楽の勉強がしたくて、親元を離れて一人暮らしをしながら音大に通いたいと申し出ました。
両親は初め、反対しました。「お前の身の回りの世話は誰がしてくれるの?」
彼女は言いました。「今は分からないわ。どんな困難に出会うかも想像もつかないわ。しかし私は誰と一緒かは知っているわ。イエス様が共におられるから大丈夫よ」
彼女は神様を信頼して、大学生活を始めました。すると、すぐに一人の魅力的な男子学生に出会いました。現在の夫フィリップ・ロスチャイルドさんです。ジェネファーさんは言います。
「信仰とは、自分の願いを神にかなえてもらうことではありません。信仰とは、人生の困難から逃れるためのものでもありません。信仰の目的は、苦難に耐える力を得ることです。そして、信仰によって苦難に立ち向かう過程において、私たちがより神の子イエス様の姿に近づくことが、神のご計画です」
「ですから私は、苦難の中にあっても喜んでいることができるのです。苦難の中で神を見いだせない人は、肉体の目が見えないことよりもっと悲惨なことです。苦難の中で神の声が聞けない人は、肉体の耳が聞こえないことよりもっと悪いことです。恐れのために前に進めない人は、体が寝たきりの人よりもっと悲劇です」
ジェネファーさんは、肉体的ハンディを負っていますが、自分の人生を自分の足でしっかり立って歩んでいます。
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