愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐(ふくしゅう)せず、神の怒りに任せなさい。(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章9~19節)
「泣く」という行動で考えてみる
子どもと大人では目線が違います。前回も書いたように、当然、体の大きさによる目線の違いもありますが、物事の捉え方、想像力などの違いも顕著です。例えば、小さい子は、頭をぶつけたとか、ちょっとしたことで泣きます。しかし経験を積むにつれ、こんなことで泣く必要はないのだと気付きます。
泣くというのは、感情の発露です。感情があふれると、泣き出すのです。ですから、大人も感情があふれれば泣くわけです。ただ、その感情の入れ物は個人差があります。子どもには理解できない「うれし泣き」という泣き方は、大人になって出てきます。それは多くの場合、痛みや不安などの感情に比べると、うれしさという感情の入れ物の方が小さいからです。そして、泣くときというのは、感情をコントロールする術を失っているときなのです。
映画の紹介などで「全米が泣いた」という広告がよく出てきますが、「アメリカ人はみんな涙もろいの?」と、保育園児時代のわが子に聞かれたことがあります。無論、「泣いた」というのは「感動した」ということであり、子どもたちが想像するような「(悲しかったり、怖かったりして)声を上げて涙を流す」ということではないことはご承知の通りです。
幼児はちょっとしたことで泣き出しますが、卒園式の時などは、結構ケロっとしているものです。しかし、保護者や保育士が子どもの頑張っている姿に涙ぐんでいるのを見た途端、多くの卒園児が泣いたりすることがあります。泣いていた園児に翌日聞いてみると、「何か分かんないけど、ウルっと来た」という答えが返ってきました。これはいわゆる「つられ泣き」というものです。
「泣く」という行動を一つの例にしましたが、子どもたちはこのように、身の回りから多くの影響を受けて感情が育っていきます。
環境構成とは
環境は、その中に身を置く子どもたちの感情に大きな作用を及ぼします。つまり環境次第で、どんな素晴らしい保育やおもちゃであっても無意味になることがあります。また逆に、環境次第で、水や砂、石、葉など、当たり前に存在するどんなものでも、保育に用いることのできる素晴らしい道具になるのです。
保育では、子どもの心身の発達や成長に関わる環境(人、物、場など)を考え、整えることを「環境構成」と呼んでいます。環境構成では、その大半を意味の検討に費やします。おもちゃ選び一つとっても、この環境構成は重要な意味を持つのです。例えば、知育玩具として有名な積み木。これにしても、ただ出しておくだけでは全く意味がありません。投げたりするだけでしょう。これをどう使えば面白いのかという「導入」が必要になります。
デパートのおもちゃ売り場に学ぶ
子どもの頃、デパートへ家族で行くと、私は必ずおもちゃ売り場に直行し、親が買い物をする時間をつぶしていました。おもちゃ売り場にいる他の子どもたちと一緒に遊んだり、誰もいないときは一人で遊んだりしながら過ごしました。そこは保育士がいない環境だったにもかかわらず、何も問題が起こりませんでした。そのことを思い出させてくれたのが、「トムテさん」の愛称で知られる木の玩具のスペシャリスト、笠井廣さんです。
「デパートでは、魅力的に、そして何ができるか、どうやって遊ぶのかが分かるように玩具を展示していたからだよ。そうじゃなきゃ玩具は売れないんだから。保育士は玩具売り場を見習うべきだよ。そのことで自分たちが楽になるんだったら、なおさらじゃないか」
笠井さんは、このように話されていました。下の写真は、私が園長時代に園児の昼寝中に作ったものです。当然、昼寝から起きた子どもたちはびっくりして、口々に「すごい」と言い出しました。恐る恐る触る子もいましたが、あっという間に崩れてしまいました。でも、その子たちは「作ってみたい」とも言い出しました。
「じゃあ、明日はこの積み木で遊ぼう」と言うと、目を輝かせました。翌日、「積み木で遊ぶ」という目的を持って登園してきた子どもたちは、自主的に遊び始めます。この場合、前日のお昼寝中に準備をし、明日の目的を形作ってあげるというのがうまい環境構成ということになります。何も大作を毎日作る必要はありませんが、こうしたところが保育者の腕の見せ所でもあるわけです。
保育者の腕の見せ所
このような環境構成では、保育者がおもちゃや遊び方に精通している必要があります。「おもちゃ出したよ、勝手に遊んで〜」ではないわけです。おもちゃにストーリーを持たせるのです。レゴブロックという有名なブロックを作っている会社のポスターに面白いものがあります。
一見すると、ただのブロックの塊ですが、影を見れば、何を表現しているのか分かります。戦車、飛行機、船、恐竜・・・。子どもたちがブロックで何か作るとき、こういうイメージを持って作っているのだということを表現しています。
「おもちゃは子どもの想像力を支える道具」なのです。この見立てのスキルが身に着くと、がぜん創作意欲が高まるわけです。子どもたちは得体の知れないもの(例えば、お皿に持った砂の山)などを持ってきて「食べて」と言ってきたりします。「これは何?」と聞くと、「ハンバーグだよ」と臆面もなく答えるのは、イメージが頭の中に描かれている証拠です。「わ〜、おいしそう!いただきま〜す」と食べる真似をするのは保育者なら常識でしょう。そして、そのきっかけをうまく作ることが保育者の腕の見せ所なのです。
環境構成8割、現場対応2割の心意気
何事も大人の尺度で見るべきではありません。子どもの目線にあった環境を整えつつ、そこに成長のための種を植え付けるイメージで環境を整える必要があります。ですから保育は、環境構成8割、現場対応2割という割合で備えていく必要があります。しかし現実には、多くの保育園が現場対応10割という保育を行なっている状況です。
多くの些事(さじ)に忙殺される保育士にとって、今日を何とかこなしても、翌朝再び「さあ、今日はどうやって乗り切ろうか・・・」となってしまう状況では、過去を振り返る余裕も、未来を楽しみにする姿勢も、それらを子どもたちと共有するための時間や気力もありません。
そんな中で展開される保育では、子どもたちもその日、その時を過ごすことにのみ集中させられてしまい、これからの人生の土台となる大切なものを獲得することができない状況になってしまわざるを得ないでしょう。
子どもを支える言葉
夕焼けは、なぜこんなに美しいの?(ハイジ)
人間でも自然でも、お別れするときの言葉が、一番美しいんだよ。太陽が山や牧場におやすみを言うときには、とっておきの一番美しい光を投げて、お別れのあいさつをするんだよ。(おじいさん)
(アニメ「アルプスの少女ハイジ」より)
保育者に必要なのは、今日を振り返り、明日に希望を持つことです。明日を楽しみにする大人の姿がそのまま、子どもたちの明日へのモチベーションになっていきます。
「また明日!」「明日も遊ぼうね」。これらの一言がどれほど子どもたちにとってうれしい、癒やしになる言葉なのか想像を巡らしてみるべきです。子どもたちが何かにつまずくとき、「あ、先生がああ言ってたっけ」「先生はどういう風に言うかな」と想像できるように、美しい、期待感のある言葉で送り出してあげてほしいのです。(続く)
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