「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢(ろう)にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(新約聖書・マタイによる福音書25章31~46節)
刑務所に教誨師として関わったことで見えたこと
聖書は、「牢にいたときに訪ね」ることも大切な務めだと語っています。基本的人権が人間には認められています。どんな悪人であっても、人として扱われる権利を有しているのです。そのため、罪を犯してしまった人々に対する私的報復は認められず、裁判を経て確定した刑期に基づき、罪を犯した人々を更生させるための活動に取り組む施設が、刑務所です。この権利の上で、罪を犯した人々の更生に向けた支援が行われているのです。しかし一方で、なかなか更生できず、再び刑務所に戻ってくる人が多くいることも知られています。
私は牧師として一時、教誨(きょうかい)師の仕事をしていました。月に一度、4~7人の被収容者がいるクラスで1時間ほど聖書の話をするのですが、その話をどうやって聞いてもらうかが教誨師の課題になります。最初の数カ月は何を言っても上の空でした。そこで、少し砕けてみようと思い、質問をすることにしました。
「何で捕まったと思う?」と私が問いかけると、「いや、たまたま運が悪かったからっすかね」と答えが返ってきます。「じゃあ、ここを出たらどうしたい?」とさらに問うと、「次はもっと上手くやろうと思います」という答えでした。
返ってきたのは、私が狙った答えではなかったのですが、そこには気付いてもいない様子でした。私の立場からすると、「悪いことをしたので、その罪を償い、更生するためにここにいます」「刑務所を出たら、しっかり心を入れ替えて生きていきたいです」といった答えが返ってくることが理想的だったのですが、見事に裏切られました。
では、どうして彼らはそんな答えをするのだろうか、と考えてみました。そして、それは彼らの思考が「その日、その時」にしか向いていないからではないか、という思いに至りました。つまり、彼らの人生は、過去・現在・未来がつながっていないのです。過去も未来も見えない中で、現在が良ければそれでいいという生き方、それが彼らの人生理解であることに気が付いたのです。
過去と未来を現在がつなぐ
そこで試しに、「次回から全員に、今日から次の教誨までの間であった、良かったことと悪かったことを一つずつ話してもらいます」と宿題を出すことにしました。簡単なことのように思える宿題ですが、最初は全員が行き詰まりました。全員から「何があったかな?覚えてないや」との答えが返ってきました。
それでも毎月繰り返していく中で、「悪かったことならあったんですが、良いことがなくて」と申し訳なさそうに話す人、「悪いことが何もなかったってのが、良かったことですかね」と言い出す人などが出てくるようになりました。そしてついには、オチなども意識して話してくれる人も出てきました。
そうこうして半年ほど続けたある日、一人が出所することになりました。その人は、「自分は、この教誨に参加して、過去と現在と未来がつながった気がします。最初は、この宿題が苦痛で仕方がなかったですけど、毎回やっている間に、今度は先生やみんなに知ってほしいと思うようになりました。で、今回出所するわけですけど、みんなに喜んでもらって、先生に祈ってもらってうれしいですし、出所しても、そうしてもらっていることを信じて生きていきたいと思います」と話してくれました。出席者全員、満場の拍手でした。祈りを合わせ、祝祷を持って送り出しました。
人生を紡ぐ
教誨師の働きを通じてこのことに気付いてから、保育士の研修で刑務所の見学を取り入れたりもしました。被収容者が刑務官の監視の下に刑務作業をしている姿を見学し、刑務所内での取り組みなどを紹介してもらう研修でした。刑務所の厳しい生活を垣間見てショックを受け、そしてまた自分が関わっている子どもたちがこんな施設に入らないようにするためには、どんな保育が必要なのかを論じ合いました。
結論からいえば、保育とは人生を連続させていくための働きだということです。それは、本人が人生を紡ぐ手伝いをすることであり、保育はまさに、その第一歩を支える働きなのです。またさらに言えば、本人が紡ぎ損なった人生をつないでいくために、福祉は存在するのです。犯罪者の傾向を見れば、高過ぎるプライド、大き過ぎる欲、弱過ぎる自制心など、さまざまな欠点が存在します。また、強過ぎる仲間意識や不信感などがある場合もあります。それは、人格的、発達的な歪みを示していると私は捉えます。つまり、多くの場合、その人が成長する過程で必要な環境をしっかりと整えていかなくてはならないということです。
未発達な故に生まれるファンタジーがその後の人生をつくる
前回、子どもたちの頭の中の成長が無の状態から徐々に形成されていく様子をお伝えしました。子どもたちは、その未発達な空間や時間、対人に対する理解を徐々に形成しながら、それを補う形でファンタジーを形成していきます。それは、サンタクロースであったり、妖精であったりします。ファンタジーが、見えない世界への信頼を生み出し、そして最終的には想像力を育むのです。想像力は、不安や恐怖なども生み出しますが、その一方でそれと並行して経験を増やしていく中で、人への信頼と、未来への希望、つらかったり苦しかったりする現実を過去に押しやりながら、自己肯定感を紡ぎ出します。
冒頭で紹介した聖句は、終わり日の裁きの場面について、イエス様がたとえを用いて話しているものですが、そこでは想像力が必要とされていることが分かります。つまり、自分の目の前にいる「最も小さい者」を、イエス様だと想像し、そのように受け止め、仕えることを、信仰的行為として紹介しているのです。
しかし、このたとえ話はさらに深い奥義を示しています。どちらの立場の人々も口々にこう言います。
「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をし(なかっ)たでしょうか」
この問に対する答えは、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にし(なかっ)たのは、わたしにしてくれ(なかっ)たことなのである」というイエス様の宣言を聞いたときに示されます。
つまり、裁きの時に主が私たちの傍に証人として立ってくださるということを悟ることができるのは、これもまた想像力の産物といえるのです。(続く)
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