朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは・・・言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。・・・また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦(ゆる)してやりなさい。そうすれば、・・・父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11:20~25)
イエス様が私たちの罪を背負い、十字架にかかって死んでくださったことによって、私たちの罪汚れが洗いきよめられ、神の子どもとしてくださいました。そして、イースターでは、死を超えるいのち、永遠のいのち、よみがえりのいのちを私たちもイエス様と共に体験することができることを感謝しましょう。
今回は、イエス様がエルサレムに入られたときのイチジクの木の話になります。イエス様が実のなっていないイチジクの木に、「今後だれもおまえの実を食べることのないように」とおっしゃった翌日に、そのイチジクの木が枯れていました。弟子たちは、魔術師の業を見るようにイエス様に驚嘆していましたが、イエス様は22節から23節で「神を信じなさい」と語られました。イエス様が語る「信仰」とはどんなものか、3つのポイントで見ていきましょう。
1. 他人事ではなく自分のものとしての信仰
弟子たちは、イエス様の素晴らしい御業にいつも驚嘆していましたが、自分自身の信仰に生かせず、信仰は成長していませんでした。イエス様は、神を信じるなら、私が行う業を見て喜んでいる見物人のままではなく、あなたがた自身も神の力を得ることができるのだと言われました。私たちも、他人事ではなく、信じる道を選ぼうではありませんか。
2. 具体的な変化を生み出す信仰
私たちは、単に内面的な心の平安を得るだけの信仰ではなく、起こり得ないような変化を生活の中に具体的に生み出す信仰を求めて祈りましょう。病の癒やし、経済や仕事の繁栄、人間関係の問題など、目の前の山を動かしてくださいと、私たちも祈ろうではありませんか。信じて疑わず、目の前の現実が変わることを体験しましょう。
3. 周囲の人々に恵みをもたらす信仰
私たちの信仰は、独りよがりの孤独な信仰ではありません。神によって罪赦された者は、自分だけが救われて終わりではありません。私たちが受けた赦し、愛、恵みは周りの人々にも流れ出ていくのです。精神修養や道徳のような信仰ではなく、生きた信仰は私たち自身も造り変え、周りの人も巻き込んで祝福していきます。
ご自分のいのちをあがないの代価として与えてくださったイエス様によって、私たちのいのちは根本的に変えられました。私たちもイエス様から生きた信仰を頂きましょう。
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