今回は、18章1~14節を読みます。
やもめと裁判官の例え
1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
ルカ福音書は、男女がペアになったお話が多くあることを、今までお伝えしてきました。今回のお話は、根気強く祈りなさいというものです。これは、第24回でお伝えした、主の祈りを教えた後に弟子たちに語られた、友達のところにパンを借りにいった人の例え話とペアであると思います。
第24回のお話は、弟子たちの誰かが友達のところにパンを借りにいくという設定で語られていますが、弟子たちは男性ですし、友達も原語が男性形ですから男性です。つまり男性同士という設定で、根気強く祈ることが教えられていたのです。
それに対して今回は、やもめ(未亡人)が中心となった例え話です。ある町に住むやもめが、何らかのもめごとに遭遇しました。それでその相手を、その町の神を畏れず人を人とも思わない裁判官に訴えていたのです。しかしその裁判官は、裁判を起こそうとはしませんでした。
旧約聖書の申命記には、モーセの言葉が以下のように記されています。
1:16 わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。17 裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」
16:18 あなたの神、主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁きをもって民を裁かせなさい。19 裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。20 ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。
申命記はモーセの言葉を伝えていますが、聖書学においては、紀元前7世紀のヨシヤ王の時代に、モーセの言葉を社会の中に適用させたものであるとされています。上記の言葉も、ヨシヤ王の時代における裁判官の在り方を、モーセの言葉からまとめたものとされています(鈴木佳秀著『VTJ旧約聖書注解 申命記』83~84、280~281ページ参照)。
イエス様の時代にも、これらのことは有効であったのでしょう。裁判官は身分の高い人に加担することなく、公平に裁かねばなりませんでした。それは言い換えるならば、やもめのような弱い立場の人の訴えを無視するのではなく、公平な視点で裁かねばならなかったのです。
しかしこの裁判官は、神を畏れず人を人とも思わない者でした。モーセの律法に聞き従わずに、やもめの訴えを無視し続けたのです。けれどもやもめは、その不正な裁判官に対して諦めずに訴え続けたので、彼は裁判を行うことにしたというのです。
イエス様は、不正な裁判官でさえ、訴え続けることによって裁判を行ったことを例えとして語った後、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と言われました。
この例えは、やもめが題材とされていることが特徴です。聖書に登場するやもめは、弱い立場の人を象徴しています。弱い立場の人が、「選ばれた人たち」なのです。恵まれない境遇にあっても、祈り続けることによって神様の憐れみの中に置かれるということだろうと思います。また、「速やかに裁く」というのは、「祈ればただちにその願いは聞かれる」というよりも、神様の御心に一番適ったときに願いが実現されるということだと思います。
イエス様の母マリアもやもめであり、また祈りの人でした(使徒言行録1章14節参照)。私は、イエス様はそんな母の姿をずっと見ていたのではないかと想像しています。こういった例え話をされた背景には、そのことがあったのではないかと思わされるのです。
ファリサイ派の人と徴税人の例え
9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献(ささ)げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください。』 14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「やもめと裁判官の例え」も、立場の低い人と高い人が対比されていましたが、次の例えも似た構図になっています。2つのお話は、共にルカ福音書に固有なものですが、この「ファリサイ派の人と徴税人の例え」は、ルカ福音書の特徴がよく表されていると思います。
また最初のお話は、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と結ばれていましたが、「では、イエス様の言われる信仰とは何か」という問いへの答えが、このお話の中に見いだされると思います。
エルサレムの神殿での光景が語られています。2人が祈るためにそこにやってきました。1人はファリサイ派の人であり、もう1人は徴税人(罪人といわれる人)でした。この対称は、ルカ福音書の特徴であろうと思います。第33回でお伝えした、16章の「放蕩息子と兄と父の例え」における、放蕩息子と兄は、まさにその構図でした。
弟は、放蕩三昧をしてお金を使い果たしますが、悔い改めて家に帰ってきたときに、神様を意味している父親に抱きしめられます。それに対して兄は、弟のような放蕩はしませんでしたが、弟が帰ってきて宴会が行われるのを見て、父に文句を言います。つまりそこでは、兄は自分が父に仕えてきたことの正当化を行っているのです。この場合の弟は罪人を、兄はファリサイ派の人を意味しています。
神殿での2人の取った態度も同じです。ファリサイ派の人は、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と自己正当化を行いました。それに対して徴税人は、自分の行ったことを悔い改めています。
イエス様は、「義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われました。徴税人は、家に帰って父に抱きしめられた弟と同じであり、ファリサイ派の人は、父にたしなめられた兄と同じでしょう。
イエス様は最後に、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言ってお話を結んでいます。これは、第31回でお伝えした14章11節と同じ言葉です。こういった点が、ルカ福音書の特徴であろうと思います。
「やもめと裁判官の例え」では、もともとの身分の低い人と高い人の対比でしたが、「ファリサイ派の人と徴税人の例え」では、意識的に自分を低くした人と高くした人の対比がなされているように思えます。そして、自分を低くすることこそが、「信仰を持つ」ということであり、イエス様が来られる時に期待されていることなのだと思います。
「やり直せます」という2つの例え
今回の2つのお話は、どちらもルカ福音書に固有なものですが、どちらも私がルカ福音書のテーマと考えている「やり直せます」ということを伝えていると思うのです。やもめは裁判官に何度も訴えることによって、再出発を願いそれが果たされています。徴税人は悔い改めることによって、やはり再出発へと向かっているのです。
皆様、どうぞ良きお年をお迎えください。(続く)
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