今回は、16章14~31節を読みます。
ファリサイ派の人々への警告
14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
前回、イエス様が語られた「不正な管理人の例え」とその解釈において、「神と富とに仕えることはできない」ということが示されたことをお伝えしました。ファリサイ派の人々が、それを聞いていてイエス様をあざ笑った場面から、今回のお話は始まります。彼らはお金に対する執着心を持っていました。
ファリサイ派の人々は、律法と預言者(書)の中に、「正しい者たちは繁栄する」というメッセージを見ていたからです。富は彼らにとって、正しさの証しであったのです。ですから、富を持つことはむしろ名誉なことであったのでしょう。
イエス様はそれに対して、第一に、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と言い、ファリサイ派の人々が自分自身の正しさを主張することを批判されたのです。
イエス様は第二に、律法と預言書には、繁栄することではなく貧しさを尊重することが記されていると語られました。第8回でお伝えしましたが、イエス様のナザレの会堂での宣教は、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」というイザヤ書の朗読から始まりました。神様は貧しい者に目をかけてくださることが告げられていたのです。律法と預言書は、貧しさを尊重しているということが、イエス様の公生涯において語られていたのです。
16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通(かんつう)の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
「律法と預言者は、ヨハネの時までである」とは、「正しい者たちは繁栄する」というファリサイ派の人々の律法の古い解釈は、洗礼者ヨハネより前の時代のものであり、洗礼者ヨハネ以後はそういう解釈はなされていないということだと私は考えています。
第4回でお伝えしましたが、洗礼者ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」「規定以上のものは取り立てるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」というメッセージを語っていました。これらのことは、概して「富に固着するな」ということです。洗礼者ヨハネより前の時代には、「正しい者たちは繁栄する」という解釈があったかもしれないが、洗礼者ヨハネ以後はそうではなくなったということだと思います。
イエス様の教えは新しいものでしたが、律法と預言書を廃棄するのではなく、律法と預言書を完成させる解釈によってそれを伝えるものでした。マタイ福音書5章17節の「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」という言葉は、そういう意味であると思います。イエス様の律法と預言書の解釈は、貧しさに対する思いやりがあったのです。
金持ちと貧しいラザロの例え
その後、イエス様は一つの例えを語られました。当然ながらそれは、ファリサイ派の人々に向けて語られたものです。そのためだと思いますが、復活を信じている彼らの死生観が背景になったお話になっています。そこでは、イエス様による新しい律法と預言書の解釈が示されています。
19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐(あわ)れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
ある金持ちが、持っているお金の故にぜいたくに遊び暮らしていました。高価な材料の食事を楽しんでいたのでしょう。ところが、金持ちの家の前にはラザロという貧しい人がいて、その家で捨てられた食べ物をあてにして暮らしていたのです。しかし金持ちは、ラザロを自分が楽しんでいた宴席に招待することはしませんでした。
時が過ぎて2人が亡くなると、ファリサイ派の人たちの死生観に基づいて、2人はよみがえります。ラザロは天使によってユダヤ人の先祖であるアブラハムのいる宴席に連れていかれますが、金持ちであった人は陰府に連れていかれます。彼のいる場所は、アブラハムとラザロのいる場所の「はるかかなた」でした。また26節によれば、2つの場所の間には大きな淵があります。
陰府は刑罰の場所と考えられていたようで、金持ちであった人は炎の中で苦しんでいたとされています。それでアブラハムに対して、「ラザロをここに遣わして、その指先につけた水で私の下を冷やさせてください」と懇願します。生前のラザロとの関係がまだ脳裏に残っているようで、ラザロは自分の思い通りになると考えていたということかもしれません。
しかし、アブラハムはその懇願を拒否します。その理由は、金持ちであった人は生前ぜいたくをしていたけれども、ラザロは苦しんでいたからだとし、ラザロはよみがえった後は慰められ、金持ちであった人はもだえ苦しむのだと言うのです。そして、2つの場所の間には大きな淵があって、行き来をすることは無理なのだと告げます。金持ちであった人は、生前にラザロを宴席に招くことをしませんでしたが、死後は金持ちであった人が、アブラハムの宴席に行くことができなかったのです。
27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
それを聞いた金持ちであった人は、方針を転換します。自分が助かることは諦めるのですが、まだ生きている自分の兄弟たちがこんな苦しい場所に来ることがないように、ラザロを遣わしてぜいたくな生活をやめるように言い聞かしてくださいと言うのです。
それに対するアブラハムの答えは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」というものでした。つまり、律法と預言書を読めばよいということです。ここでファリサイ派の人々への警告にあった「律法と預言者は、ヨハネの時までである」という言葉についての、イエス様の考え方が示されたのです。
イエス様の律法と預言書の解釈は、ナザレの会堂で朗読されたイザヤ書の「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」に沿ったものでした。ファリサイ派の人々の「正しい者たちは繁栄する」という解釈とは一線を画すものであったのです。
そしてアブラハムは最後に、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と告げたとされます。この「たとえ死者の中から生き返る者があっても」というのは、イエス様の復活を予示しているとされます。
律法と預言書に聞かない者は、復活後のキリストを宣教する初代教会においても、その教えを聞かないだろうということです。この例えは、ファリサイ派の人たちに向けて語られたものですが、今日の私たちに向けてのものでもありましょう。私たちも律法と預言書、すなわち旧約聖書を、イエス様の教えを通して学びなさいということであろうと思います。それは前回お伝えした、富を拝するマモンを遠ざけなさい、ということにつながっていくのではないかと思います。
大きな淵に架けられたイエス様の十字架
この例えの中では、アブラハムとラザロがいた場所と、金持ちであった人がいた場所の間には、大きな淵があって行き来することができませんでした。しかしこの大きな淵に、イエス様の十字架という橋が架けられたのです。今回のお話における最終的なメッセージは、そのことであろうと思います。
私たちはイエス様の十字架によって、アブラハムの宴席に行くことができるのです。滅ぶことはないのです。(続く)
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