今回は、13章18~30節の「神の国」について教えている3つのお話を読みます。
「からし種の例え」と「パン種の例え」
18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔(ま)くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
最初の2つは、「からし種の例え」と「パン種の例え」です。「からし種の例え」は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書)のマタイ福音書とマルコ福音書の両方に並行記事がありますが、「パン種の例え」はマルコ福音書には並行記事がなく、マタイ福音書にはそれがあります。
本コラムの第2回において、「ルカ福音書の特徴の一つは、男女がペアになっているものが多いことです」とお伝えしましたが、今回の「からし種の例え」と「パン種の例え」も、上記のように2つのお話が他の福音書に並行記事を持つとしても、ルカ福音書の特徴の「男女のペアの話」ではないかと私は考えています。
「からし種の例え」の「人がこれを取って庭に蒔くと」の「人」は、ギリシア語の原語は「アンスローポス」といって、通常は「男女を問わない人」を意味しますが、文脈によっては「男」を意味します(『ギリシア語新約聖書釈義事典(1)』134ページ参照)。
この場合は、「パン種の例え」の「女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると」の、「女」と対応している「男」であるように思えます。「パンを作るのは女性の仕事」というようなことではなく、「男女のペアの話」であると捉えた方が良いと私は考えています。
からし種というのは、直径が1ミリ程度の本当に小さな粒です。しかし、その種が蒔かれて芽を出して成長すると、その枝に鳥が巣を作るほどの潅木(かんぼく)になるのです。
この例えは、初代教会を暗示しているといわれています。イエス様が昇天した後にできた初代教会は、最初は小さな群れでした。しかし、それがパウロの時代には、地中海世界に広がるまでに大きくなったのです。
また、「神の国を表す植物の枝に烏たちが集まって巣を作るという展開は、しばしば、異邦人が〔神の民に〕包含されることの暗示として解釈されてきた」(リチャード・アラン・カルペパー著『NIB新約聖書注解4 ルカによる福音書』355ページ参照)ともいわれます。初代教会を暗示するからし種の潅木の枝に、異邦人が集まったという意味です。これも初代教会を暗示していることです。
これらのことはもちろん、現代の教会にもいえることでしょう。始まりは小さくても、やがて大きくされる教会ということになるでしょう。
「からし種の例え」が、その木に外から鳥が留まるのに対し、「パン種の例え」は内側で膨らむことが示されています。パン種(イースト)をパンの生地に混ぜると、小麦粉が発酵して膨らみます。3サトンとは約40リットルで、結構な量ですが、少量のパン種でもその粉を膨らますことができるのです。
それと同じように、小さな働きであっても、神の国では大きくなっていくのです。これも初代教会での出来事を暗示しているのでしょうが、現代にも当てはめることができると思います。私たちは、小さな奉仕であっても臆することなく進めていけばよいのです。神様はその働きを、社会や教会において大きく用いてくださいます。
狭い戸口
22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
イエス様がエルサレムに向かう途中に、ある人が質問をしてきました。この人は恐らくファリサイ派の人でしょう。その人が、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と聞いてきたのです。イエス様はそれに対して、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」とお答えになりました。
この言葉は、マタイ福音書7章13~14節に並行記事があります。しかし、両者には違いが見られます。当該箇所を掲載します。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
マタイ福音書は「狭い『門』から入りなさい」なのですが、ルカ福音書では「狭い『戸口』から入るように努めなさい」という言葉が伝えられているのです。門には高さの制限はありませんが、狭い戸口から入るためには高さの制限がありますから、身を低くしなければなりません。
しかもそのために「努めなさい」と言われているのです。「努めなさい」はギリシア語の原語では「アゴーニゾマイ」で、「競技を戦う」という意味合いです。つまり、「狭い戸口から入るために身を低くすることに、競技者が戦うように一生懸命に努めなさい」ということなのです。
しかし、その狭い戸口から入れない人が多く、さらには入れないで外にいると家の主人が戸を閉めてしまい、戸をたたいても入れてもらえないと、イエス様は言われました。そしてその入れない人は、質問をした人たちであるというのです。
さらにイエス様は、その入り口を入ったところには、アブラハム、イサク、ヤコブや預言者たちがいて、東から西から、また南から北から来た人たちと共に宴会を開く、そしてそこが神の国なのだと言われたというのです。
このお話は何を意味しているのでしょうか。私は狭い戸口から入るということは、身を低くする、すなわちへりくだることだと思うのです。このお話を理解するためには、18章9~14節の「ファリサイ派と徴税人の例え」を読むことが有用であると思います。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献(ささ)げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派の人は、自分は立派であるという少し長い祈りをしますが、徴税人は一言だけ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という悔い改めの祈りをしたのです。そして、義とされた、つまり神の国に入ることになったのは徴税人の方であったとイエス様は言われています。
ちなみに、この例え話はルカ福音書に固有なものであり、最後の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というフレーズは、いかにもルカらしい伝え方だと思います。
この例え話の徴税人のように、狭い戸口から入るためにへりくだって身を低くすることが、「狭い戸口から入るために身を低くしなさい」というお話の言わんとするところであり、そのためには「競技者が戦うように一生懸命努めなさい」ということであろうと私は考えています。イエス様に質問をした人は、「ファリサイ派と徴税人の例え」におけるファリサイ派の人と同じに、受け入れられなかったのです。
価値観が逆転している「神の国」
神の国とはどんなところかという3つのお話を読んできましたが、共通していることは、通常の世界とは価値観が逆転しているということです。「からし種の例え」と「パン種の例え」では、小さなものが大きな活動をするという通常とは違う価値観を示していました。
「狭い戸口」のお話は、最後が「そこ(神の国)では、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」と結ばれていて、これも通常とは違う価値観であると思います。3つのお話ではそれぞれ、小さいことが是とされています。私はこういったお話に、実は大変励まされています。(続く)
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