今回は、15章1~10節を読みます。
1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
前回、14章15~24節の「大宴会の例え」をお伝えしましたが、それはファリサイ派の人の家での宴席で語られたものでした。そこでは、主人が宴会に人々を招き、僕(しもべ)が宴会の開始を告げますが、招いていた人々が招きを断ったため、主人が僕に、貧しい人、体の不自由な人などを連れて来るように要請し、僕がそれを実行したということが語られていました。つまり、僕は2度にわたって派遣されたということです。
前回のコラム執筆後に、宮田光雄氏の近著『良き力に不思議に守られて』を興味深く読みました。この本においては、14章の上記の箇所が「〈盛大な晩餐会〉への招き」と題されて、一つの項として取り上げられています。そこでは、2度にわたって派遣された僕は「おそらく世界宣教の途上にある教会を暗示しているでしょう」とされ、また招待した主人はイエス様を指しているとされています(同書102~103ページ参照)。
そして、イエス様はその生涯において、「弟子たちばかりでなく、ファリサイ派の人たち、さらに徴税人や罪人たちと、しばしば同じ食卓について交わりを共にされています。それは、人びとを招こうとされるイエスの愛のあらわれであり、イエスが開こうとされる交わりの目に見えるしるしを意味していました」として、「『いまや〔祝宴の〕用意ができています』というこのたとえの設定は、こうしたコンテキストにおいて理解されねばならないでしょう」ともされています(同書96~98ページ参照)。
イエス様の生涯においてなされていた、ファリサイ派の人々や徴税人、罪人たちとの「食事」は、世界宣教の途上にある教会において伝えられることになる「キリストの宴席への招待」を暗示していたということでしょう。そういった意味において、14章(1~24節)は、ファリサイ派の人の家で行われた宴席について伝えているのに対して、今回お伝えする15章は、冒頭に提示したテキストによれば、徴税人や罪人との食事の席についてであり、またそこにはファリサイ派の人々や律法学者たちも加わっていたのです。そうした場所で語られたお話であるということは、宮田氏の論考と合わせ読むと、大変興味深いことです。
イエス様は、徴税人や罪人たちとも食事をされましたが、ファリサイ派の人々や律法学者たちはそのことを非難しました。そのような徴税人や罪人たち、そしてファリサイ派の人々や律法学者たちがいる場所で、今回の「見失った羊の例え」と「無くした銀貨の例え」、また次回お伝えする「放蕩(ほうとう)息子と兄と父の例え」が語られているのです。
見失った羊の例え
4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
羊飼いが、迷い出た1匹の羊を捜し出すというこのお話は、マタイ福音書18章12~14節に並行記事があります。よく似た内容として伝えられていますが、マタイ福音書が「山」から羊が逃げ出したとしているのに対して、ルカ福音書は「野原」から逃げ出したとしているところが、大きな違いだと思います。
「山」というのは、聖なる場所を示しています。旧約聖書においては、シナイ山に神様が顕現され、イスラエルの民に十戒が啓示されました。マタイ福音書によるならば、山の上で「山上の説教」が語られ(5~7章)、復活されたイエス様は、山の上で弟子たちと会われました(28章16~20節)。
聖なる場所、それは教会を暗示しているのでしょう。マタイ福音書の「見失った羊の例え」では、迷い出た1匹の羊は、教会からはぐれてしまった信徒を意味しているとされます。そのような兄弟に対して、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)というのが、マタイ福音書のメッセージだと思います。
それに対して、ルカ福音書の「野原」というのは、どこを指しているのでしょうか。私は、これは広く世界を指していると思います。そこにはさまざまな人々がいます。イエス様の時代でいうならば、ファリサイ派の人々や律法学者たちのような宗教者もいれば、徴税人や罪人とされる人たちもいたのです。このお話が語られていた場所にも、そういった人たちがいました。
ルカ福音書の「見失った羊の例え」のさらなる特徴は、その羊が「悔い改める一人の罪人」(7節)とされていることです。そしてその羊が見つかったならば、友達や近所の人々を呼び集めて祝宴を開くことになるのです。
目の前には徴税人や罪人たちがいて、一緒に食事をしているイエス様をファリサイ派の人々や律法学者たちが非難しています。徴税人や罪人たちがイエス様と共に食事をしていることは、彼らが悔い改めたことを示していると思います。つまり、羊飼いに捜し出された1匹の羊になったのです。友達や近所の人々を呼び集めて祝宴を開くとは、「一緒に喜ぼうではないか」と、イエス様がファリサイ派の人々や律法学者たちにも呼びかけたということだと思います。
無くした銀貨の例え
8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
ルカ福音書は、男女がペアになっているお話が多いのが特徴です。今までにも、「ザカリアとエリサベト」「シメオンとアンナ」「からし種とパン種の例え」などをお伝えしてきました。この「無くした銀貨の例え」も「見失った羊の例え」と男女のペアとなっています。
内容は、「銀貨10枚を持っている女性がそのうちの1枚を無くしたならば、徹底的にそれを捜し出す。そしてその1枚の銀貨は、悔い改めた1人の罪人を意味している」というもので、「見失った羊の例え」とよく似ています。羊を捜し出した羊飼いが男性であるのに対して、硬貨を捜し出した人は女性です。
このお話も、硬貨を捜し出したならば、友達や近所の人々を呼び集めて祝宴を行うとしています。ここでは祝宴に参加する人たちは皆、女性です。なぜ同じようなお話が2つ語られているのかと思いもしますが、女性たちが主人公のお話もなされているということなのだと思います。
また、「見失った羊の例え」よりもお話が短いので、祝宴の部分が強調されているように思えます。このお話も、徴税人や罪人がイエス様の元に来たことを喜ばないファリサイ派の人々や律法学者たちに、「一緒に喜ぼうではないか」と呼びかけているのではないでしょうか。
全ての人を憐れまれる神様
今回の2つのお話は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と、両者とも神様の側に喜びがあることが示されています。神様は全ての人に対して憐(あわ)れみを持たれているからこそ、罪人の悔い改めを喜ばれるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは喜ぶことができませんでした。
私たちは徴税人であり罪人です。ですから、神様に立ち返ることを求められています。今回の2つのお話は、そのことを私たちに求めているように思えます。一方で私たちは、ファリサイ派であり律法学者でもあります。自分を義とする者でもあるのです。イエス様はそのような私たちにも、他者に対する神様の憐れみがあることを告げておられるように思えます。ファリサイ派も律法学者も、徴税人も罪人も、皆が神の国の宴席に招かれているからです。(続く)
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