今回は、17章20~37節を読みます。
神の国はあなたがたの間にある
20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ここではイエス様が、再びファリサイ派の人々を相手にして対論をなさっています。彼らが、「神の国はいつ来るのか」とイエス様に問うたのです。それに対してイエス様は、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。
このイエス様の言葉は、口語訳聖書では、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」とされていました。これは「神の国は人間の内面にあるのだ」というニュアンスの翻訳です。一方、新共同訳聖書の「神の国はあなたがたの間にあるのだ」は、神の国は人と人の間、つまり社会や教会といった人々の集まりの中にあるのだというニュアンスです。
私は、新共同訳聖書のこの解釈による翻訳がとても良いと思います。英語聖書も、最近の翻訳は「among you」となっています(New Living Translation など参照)。イエス様がここで言わんとしていることは、神の国は人々の内面に起因しつつも、彼らの共同体の中に存在しているということです。
そしてこれは、ファリサイ派の人々の質問に答えて話されたものです。ファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえて十字架につけた人たちです(ヨハネ18:3参照)。ファリサイ派の人々の間に神の国があるということは、イエス様を十字架につけた人たちの間に神の国があるということです。
これはまた、イエス様を十字架につけた私たちの間に神の国があるということです。また言い換えるならば、イエス様の十字架を仰ぐ私たちの間に、神の国は存在するということでしょう。神の国は、もうすでに始まっている事柄なのです。
完成されていない神の国
22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
神の国は始まっていますが、しかしまだ完成されてはいません。イエス様が再び来られる日に、神の国は完成するのです。弟子たちが、神の国が完成する日を、一日だけでも見たいと望む時が来るとも言われます。20~21節は、ファリサイ派の人々に対して言われていましたが、ここでは弟子たちに対して語られています。
私は、「弟子たち」と「ファリサイ派の人々」を、対立事項・別の人々とは捉えていません。私たちは、イエス様の弟子ですが、時に自分を正しい者とするファリサイ派の人々にもなり得るからです。ですから、ここでの弟子たちというのは、広くキリスト教徒のことを指しているのだと思います。
キリスト教の2千年の歴史において、再臨のキリストがいついつに来るという、異端的な教えがしばしばなされてきたことは事実です。「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」ということが、しばしば言われてきたのです。
しかしイエス様は、キリスト教徒はそういう言葉に振り回されてはならない、そのように言う人の後を追いかけてもいけないと言われているのです。イエス様は、いついつに来られると、指定された日ではなく、大空に突然ひらめく稲妻のように、突然に来られるからです。
ノアの時代の人たち
25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。 26 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
しかしイエス様は、ご自身が再び来られる時の前に、ご自身が苦しまれて人々から排斥される時がまず来ると告げられます。これは、イエス様が十字架につけられて殺される時のことです。この排斥した人たちに自分自身を重ね合わせることが、キリスト教の信仰であると私は思います。
私たちは、私たちのために十字架につけられたイエス様が、私たちの罪のために死んでくださったのだという信仰を持ちながら、再び来たるイエス様を待ち望むのです。
旧約聖書の創世記に、ノアの箱舟のお話があります。神様が世界を創造なさったことを後悔して、一度洪水によって滅ぼしてまた造り直そうと考えられたとき、正しい生活をしているノアとその家族に目を留められました。神様は、ノアとその家族を救うために箱舟を造るように命じられました。
ノアが箱舟を作っているときに、人々はそれをあざ笑って食べたり飲んだりしていたことでしょう。これらは、神様から離れた人間が取る行為でした。イエス様が再び来られる時も、同じことが起るだろうというのです。つまり、独り子をこの世に遣わした神様の思いから離れるようになる、十字架のイエス様から目を離すようになると言われておられるのです。
ロトとソドムの滅亡
28 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
創世記13~19章には、ロトとその家族、そしてソドムとゴモラという町の滅亡のお話があります。カナンに入ったアブラハムと共にいた、彼の甥(おい)のロトとその妻と2人の娘が、ソドムという町に住みます(13章12節)。しかしソドムの住民は邪悪で、神様に対して罪を犯していました(13節)。
神様はソドムと近くのゴモラの町を滅ぼすことを計画されますが、ロトの家族だけを救うために2人の御使いを遣わします(19章1節)。御使いたちは、4人に町から逃げるように言います。その際にロトたちは、「後ろを振り返ってはいけない」と言われます(17節)。ロトたちが逃げると、神様はソドムとゴモラの町に硫黄を降らせ、一帯を滅ぼされます(23~25節)。
イエス様は、この話をも弟子たちになさって、「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」、つまり、イエス様が再び来られる時にも同じことが起ると言われたのです。それは、ノアの話をなさったのと同じ意味で、再臨の時には、人々が独り子をこの世に遣わした神様の思いから離れるようになる、十字架のイエス様から目を離すようになるという意味であると思います。
振り返って塩の柱になってしまったロトの妻
31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。32 ロトの妻のことを思い出しなさい。33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。※36 畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹(たか)も集まるものだ。」
※ 36節は、一部の写本のみに存在する。
イエス様が来られる時には、自分の持っている物やこの世へのこだわりは捨てなさいということです。ロトの家族は逃げるときに、「後ろを振り返ってはならない」と言われていました。しかし、ロトの妻は後ろを振り返ってしまいました。自分たちが生活していた町がどうなっているのか、気になったからでしょう。
そうすると、彼女は塩の柱になってしまいました(創世記19:26)。イエス様は、その「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言われたのです。ロトの家族でも、ロトと2人の娘は救われ、ロトの妻は塩の柱になってしまいます。
これと同じように、イエス様が再び来られる時にも、寝ている2人の人も、臼をひいている2人の人も、畑にいる2人の人も、1人は救われるが、もう1人は取り残されると言われました。そして、それがどこで行われるかという質問に対しては、「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と答えるのみです。「そういう問いがなされること自体がナンセンスである」という意味だと思います。
アドベントの時に
イエス様のこれらのお話は、私たちを裁くものではありません。むしろ、この世における様々な束縛から解き放たれて、イエス様によって始められた神の国に十字架を介して住ませていただき、再び来たるイエス様を待ち望んで歩んでいくということであろうと思います。
今、クリスマスを迎えるアドベントを歩んでいますが、この時季は特にそれを思う時でもあります。(続く)
※ 次回は、クリスマスを前にして、通常の順序によってではなく、2章1~20節からお伝えします。
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