明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今回は、18章18~30節を読みます。
律法を守りなさい
18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。20 『姦淫(かんいん)するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟(おきて)をあなたは知っているはずだ。」
今回のお話は、マタイ福音書とマルコ福音書にほぼ同じ内容の並行記事があります。イエス様に質問をした人はマタイ福音書では「青年」(19章20、22節)とされているために、冒頭に掲載した絵画のように「富める青年」とされることが多いようです。
この人はイエス様に、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問うていますが、これはルカ福音書では第22回でお伝えした「善いサマリア人の例え」を語られた律法の専門家に次いで2人目です。イエス様はその時は、問いに対して「『神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい』という聖書の教えを実行しなさい」という内容で答えられていました。
今回も聖書から答えられています。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と、十戒の第4戒から第9戒を示されます。言わんとされていることは、「十戒全体を守りなさい」ということであろうと思います。
十戒は、「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」を具体的に箇条化したものです。ですから、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いに対するイエス様の答えは、「善いサマリア人の例え」での、律法の専門家への答えと同類のものであったと思います。
欠けているもの
21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
聖書の文脈などからすると、この議員はファリサイ派の人であったと推察されます。育った家庭もそういう環境だったのでしょうから、聖書の律法は子どもの時から守ってきたのでしょう。しかし、第35回でお伝えしましたように、ファリサイ派の人たちは律法と預言書の中に、「正しい者たちは繁栄する」というメッセージを見ていました。ですから彼らにとって、富とは正しさの証しであったのです。
けれどもイエス様のメッセージは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(4章18節)というものであり、律法と預言書は貧しさを尊重しているという解釈に立った教えがなされていました。
イエス様はこの議員に対して、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と言われましたが、この言葉の意味するところは、ファリサイ派の人々の聖書解釈に否を突き付けるものであったのでしょう。この答えは、この議員にとっては難題となるものでした。それで「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ」とあります。
神にはできる
24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
イエス様は議員が悲しむのを見て、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。私は、子どもの頃にこのお話を聞いたのですが、とてもインパクトが強かったことを覚えています。「らくだは実は綱である(原語では言葉が似ているそうです)」とか、「エルサレムには『針の穴』といわれていた小さな門があって、そこをらくだが通ることを意味している」などの説もあるようですが、私は「らくだが針の穴を通る」という表現そのままで良いと思うのです。
それは、要するに不可能であることを意味しています。「金持ちが神の国に入ることは不可能である」と、イエス様は言われているのでしょう。これは、第34回でお伝えした「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」ということと同じだと思います。この場合の「富」とは、マモンといわれる拝金主義のことで、神の国とマモンは共存しないということなのです。
しかし、イエス様の話を聞いた人々は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言い出しました。イエス様は、「人間にはできないことも、神にはできる」と答えました。神の国とその義を第一にしていれば、必要なものは与えられるということでしょう。
私は、イエス様のメッセージはもちろん大事にしていますし、神と富とに仕えることはできないとも考えていますが、一方で旧約聖書の箴言の以下の言葉も大切にしています。
貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。(30章8b~9節)
お金持ちになる必要はありませんが、日々の生活に必要な糧は大事であると考えています。
親族から捨てられた人たちの教会
28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
イエス様の最後の言葉は分かりにくいです。「家族を捨てろ」と言われても、その通りにはできません。どう解釈すればよいのだろうかと考えてしまいます。「神の国のために親族から離れる者は、新しい時に永遠の命を得るのと同様に、この世でも豊かな愛情(おそらく信仰者の共同体に関するものであろう)を見出すであろう」(F・B・クラドック著『現代聖書注解 ルカによる福音書』354ページ参照)という解釈が妥当でしょうか。
先般、大阪・西成の釜ヶ崎にあるメダデ教会を取り上げた『愛をばらまけ―大阪・西成、けったいな牧師とその信徒たち』の書評を書かせていただきました。そのメダデ教会のクリスマス礼拝の様子が、動画でアップされていました。礼拝では、ある男性の洗礼式も行われたようですが、彼の両親も出席したそうです。
そのことを西田好子牧師は、「メダデ教会にとっては初めての出来事です。メダデ教会は、親族も切れてます。『来てくれ』言うても来てくれません」と語っておられます。メダデ教会に通う人たちはほとんどの場合、親族に見放されて身寄りのない人たちです。そうした人たちが「メダデの家族」として集い、お互いに助け合っています。
メダデ教会の人たちは、親族と離れてしまっているため、その愛情を受けることができません。彼らは神の国のために親族と離れたのではないですが、クラドックの解釈のように、メダデ教会という共同体においては愛情を受け合うことができ、それは神様の永遠の命を受けていることなのかもしれません。
イエス様の言葉の背景には、このようなことがあるのではないかと思わされました。(続く)
◇