はじめに
「私は・・・」。今まで、私が書いてきた物語の書き方は、たいていそうでありました。「私は」または「僕は」というように、主人公のまなざしで書くことを好んできました。そうすることで、架空の人物の架空の体験を、まるで自分が体験しているように書いてゆくことができました。まるで自分が主人公になったように、物語の中でいろいろな景色を見て、いろいろな体験をしてきました。
そしてまた「私は」・・・と始めようとしています。しかし今回は「私・・・ところざきりょうこ」のことを書かせていただきたいと思いました。難しいことは分からないのですが、エッセイとか、随筆とか・・・または証しともなるのでしょうか。
とにもかくにも「夜明け前」は、著者の日常や神様との出会い、神様への思いをつづってゆきたいと思っているのです。
今までの全ての物語も、私の感じたもの、考えたことであふれておりましたが、今回は本当に「私」のことを書かせていただきたいと思っているのです。
世界の出口
・・・今は、まだ闇は濃く、空ではゆっくり天体が回っていることを感じられるような、夜明け前。この暗やみに光が差す朝を待つ「夜明け前」。
窓から家々を眺めると、明かりの消えた家々からは眠りの夢がにじむようです。本当の目が開かれることを待ち望み、世界の真理を探そうとする人はいったいどれほどいるのでしょうか。人は今日も一日を乗り越えることで精いっぱい。かたくなな心に「福音」は、愚か者の見る夢のように重みを持たず、福音を信じる私たちは、‘夢見る者’ のように映るのでしょうか。
それはそうかもしれません。2千年前におとめマリアから生まれ、十字架につけられて死んだはずのイエス様が、実はよみがえって神の右に座しており、やがて光り輝く栄光に満ちた姿で、万軍を従え雲に乗って帰ってくるのだ、と信じているクリスチャンはどれほどにこっけいで愚かしくあることでしょうか。
この空の下では、今も侵略、迫害、殺りくが繰り返されています。それは人間の歴史が始まったときから途絶えることなく続いており、私たちは毎日の暮らしの中でも、歴史の中でも、争いをやめることができません。
そんな地表で天に向かい、祈り続けて光を待つ、私は愚かなクリスチャンです。
私は知恵もなく学もなく、また病者でもあり、誇れることなど何一つとしてありません。そしてそれを恥ずかしく思い、必死に隠したり、またばかげた見栄を張って生きてきたものでした。しかしイエス様を知ってから、誇れるもののないことが、うれしいことに変わりました。低いものに、弱いものに注がれるイエス様の熱いまなざしを知り、愚かな者こそを選ばれたイエス様のあわれみを知ったからです。
私は病ゆえに、熱心に働きに出ることもはばかられ、薬の副作用や病の二次障害で内臓も足腰も弱りやすく、先日44歳の誕生日を迎えましたが、その年にふさわしいはつらつとした張りのある心が、からだの弱さと共に失われているような気がしました。
今の夫と40歳で結婚し、結婚生活は3年半を過ぎました。夫は私の一番の友達であり、父のように頼もしく、兄のように優しく、子どものようにわがままなときもあります。毎日生活しているといろいろなことがあり、また逆立ちしても良い妻とは言えない未熟な私でしかありません。
子どもを持つことも諦めた代わりに、かわいらしい4匹の猫たちを得て、いつもとぼけているような優しい夫と、穏やかな毎日を繰り返しています。夫は朝の6時には仕事に出かけ、夜の8時を過ぎてようやく帰ってきます。長い一日を神様の御手の温かさに包まれるように過ごします。重い体を引きずって何とか二人分の家事をして、オルガンを弾いたり庭の花を愛で、草むしりを少しだけして、猫たちと語らって今日も過ごせることでしょう。
私はどうやっても、私のあこがれる敬虔で従順な信仰の先輩方には似ても似つかない未熟な者です。決して人の模範になれるような人間ではありません。「私は病気だから」と開き直ってみることも神様を前に、少々居心地の悪さを感じます。七転八倒の信仰生活を送る私の周りの人たちには、大変な思いをさせているかもしれません。
そんな未熟な信仰者に過ぎない私のことを書くこともよいのではないかと思い至り、筆をとることにしたのです。
私の人生は、「死」へのあこがれにとらわれたものでありました。幼い頃から ‘変わり者’ であった私にとって、この社会はなかなか生きづらいものでありました。幼稚園児の頃に、この世界には「戦争」があることと、私たちは皆「いつか死ぬ」ことを知りました。それは永遠に続くと思っていた無邪気な少女時代を一変させ、私の心に深い影を落とすに十分なことでした。そしてその頃から登園拒否が始まり、私は幼稚園をさぼって背丈の倍はあるアジサイの中に隠れて、または橋の下に隠れて土をいじり、ダンゴムシさんや草花たちと語らって、一人遊びをして過ごすようになりました。小学校に上がっても登校拒否のくせは残り、なんとかまだらに学校に通っていましたが、3年生の時、初めて死への衝動に駆られました。
その日のことはよく覚えています。その日は土曜日で、お昼過ぎに学校は終わりました。私は家路に就きながら、柳が揺れ、野花が咲くのを見渡して、風が頬をなでるのをそれは心地よく思いました。夏の乾いた風と共に、両親や兄、妹を愛している思いが胸いっぱいに吹き込んで「私は幸せだ」と確信しました。・・・なぜでしょう。そうして帰った家で、私はキッチンのガスのチューブを切り、居間にガスを流しながらソファに寝そべって目を閉じたのです。ガスのせいか、眠ってしまったせいか分かりませんが、おぼろげな視界の中で、妹が必死に窓を開け放っている後ろ姿をよく覚えています。
幼い時から、まるで頭に靄(もや)がかかっているような心地の悪さを感じていました。心と体が別のところにあるように、この世界に現実味を感じられずにおりました。いつか全てが夢だったかのように、目覚める時を夢見ていました。この世界は現実味のない、うそでできた迷路のようであり、どこかにあると信じていた ‘本当の世界’ を探していました。
どこかに ‘本当の世界’ があると信じ、この ‘うその世界’ から逃げ出したい一心で、死を望んでいたのです。
学校で教わる事柄に興味を持つことはできず、風や花や土がささやきかける小さな声に耳を澄ますことが好きでした。そんな私を両親は心配し、時に腕を引っ張って、時にはたいて、どうにか学校に行かせようとしておりました。決して裕福とは言えない家庭でも、なんとか大学まで出してやりたいと、毎日東京まで片道2時間かけて働きに行っていた父親は「誰のために働いていると思っている」と声を荒げて手を上げました。
父は働くことが合っている性分ではなく、仕事も何度も変わりました。それでも子どもたちのために休むことなく働いてくれました。
家庭は将来の見えない娘がいたこともあり、どんどん冷え切り、病んでゆきました。まるで悪魔が棲みついているかのように、不穏な空気が家じゅうを支配してゆきました。ドアが乱暴に閉められる音、壁やガラスに穴が開く音、暴言に悲鳴、舌打ち・・・そんな音が私の耳の奥にはこびりついています。
クラスメートとの関係も上手に作ることができなかった私は、次第にいじめの対象にもなり、中学生になったころにはすっかり登校拒否児になっていました。通信制の高校になんとか入れてもらいましたが、スクーリングにもまともに通わず、家で映画を見たり、夜中に絵を書いたり散歩に出たり、昼夜逆転のいい加減な生活をしていたことをおぼろげに覚えています。
そしてそれより生々しく、現実味を帯びて覚えているのが「虚無」と呼んでいた暗やみのことでした。私の目は、壁や天井の向こうの恐ろしい闇を捉えました。存在すらしない、悪魔の喉仏の奥にある「虚無」は私に忍び寄り、心を舐めつくし、やがては丸ごと飲み尽くされるような気がして、私は怯えていたのです。
しっかり勉強もせず、スクーリングにもまともに通わない私に、父は拳を振り上げ、足で蹴り、言い放ちました。「気に食わないなら出ていけ」
母は私を心配し、祈祷師のもとに連れて行ってお祈りをしてもらったり、精神病院に連れて行きました。私には重い病名が告げられました。しかし私は、当時偏見も大きかったその病名を受け入れることはできず、父の言い放つ通りにこの家を出ることを決断したのです。
「夜明け前」というこの随筆のタイトルは、ちょうど夜明け前の3時過ぎに書き始めたことからつけましたが、「夜明け前」というのは、ちょうど今の時代のようだと思いました。まだ朝の気配もなく、世界は暗やみに支配されています。朝が来ることを知らなければ、あまりに恐ろしい闇でしょう。夜は、明ける前が一番暗いのかもしれません。今の時代は、暗い暗い「夜明け前」。
それでも今日も朝が来るように、この世界にやがて全てを照らすまことの光が来るといいます。私たちの神、イエス様が、王としてこの世界に戻って来られ、闇は去り、光で包まれる本当の「夜明け」がやってくるというのです。今は、その光を待つ「夜明け前」・・・触れられるほどに闇の濃い時代を、私たちは生きている気がしてならないのです。
私は高校の在学中に家を出て、年齢もごまかせる怪しげな仕事を転々とし、日銭を稼いで生きました。家賃に食費に、光熱費にポケベル代、次から次へと支払いの催促は舞い込みました。まるで自転車操業の綱渡り。いつ転落するか分からない恐怖に背中はいやな汗をかいて、夜になっても眠れないので睡眠薬のとりこになってゆきました。
睡眠薬を飲むと、朝になっても昼になっても頭がぼんやりして働かないため、さらに仕事も続けられなくなってゆきます。クビになっても求人雑誌には仕事があふれておりますから、また面接に行けばいいだけの話です。しかし働いていない時間の分だけお金は減りますし、よくガスが止まったり電気が止まったりすることに慣れていくことはいやでした。そしてクビになるたびに「お前は無用者なのだ!」と世界にがなり立てられるようでした。
クビにならないためならば、何でもしました。道化のように人の顔色をうかがっては、求められる自分になろうとしました。しかしそれがかえって人にとっては目障りだったように、今となっては思います。自分に価値などないのだから、売れるものなら何でも売って生きてゆこう、そんな人たちが私の周りにはわんさか生きておりました。その頃は、まだ日本は豊かな国だと言われていた気がします。しかし、私の目に映る世界は豊かさとは遠く、生存さえもあやふやな世界でありました。社会保障やセーフティーネットはその頃も叫ばれておりましたが、インテリしか知らないもののようでしたし、私の耳に届くこともありませんでした。
夫にその頃の話をすると、夫はすぐに目を潤ませて、「なんてかわいそうなんだ」と漫画のようにおいおいと泣きます。でもサラリーマンの夫を持ち、一見崩れることのないような今の安穏とした生活だって、いつ足元からひびが割れ、崩れ落ちるか分かりません。この空の下では、戦禍にのまれ、または迫害や強奪、自然災害、ありとあらゆる苦難によって、あっという間に日常が奪い去られた人たちの涙が流れ続けています。本当の安住の地など天の御国以外にはなく、今だって生存すらあやふやな世界に生きていることに変わりはありません。だからこそ神様以外に頼りになるものなどなく、いつだって神様としっかり抱き合って、離れないで、今日も生きられることのほかに、私にとって確かなことはないのです。すると今にも崩れ落ちそうなあやふやな世界も凪(なぎ)の様相を呈して、人知では計り知ることのできない平安へと導かれてゆくのです。
本当の自由人、死にも勝利した圧倒的な平安。そんなものを兼ね備えた信仰の勇者とは、お世辞にも言えない私です。しかし一人一人のキリスト者それぞれに神様はふさわしい道を与え、それぞれに取り扱って、愛し、鍛えてくださっています。神様は、一人一人に特別な道のりをお与えになって、誰が誰より優れているということもないのでしょう。私は私に与えてくださったこの道をありがたく受け取って、抱きしめて、歩んでゆきたいと思っているのです。(つづく)
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、東埼玉バプテスト教会の母教会である我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫4匹と共に暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「ところざきりょうこ 祈りの部屋」「ところざきりょうこ 涙の粒とイエスさま」。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。