青空にゆっくりと夕日が沈み、虹色の光が地平線に広がりました。羊雲が光を映してピンク色に輝きながら、ゆっくり空を流れてゆきます。あまりに美しいこの空をいったいどのような方がおつくりになったのでしょうか。いったいどれほどの人が、この奇跡的な一瞬に目を留めていることでしょうか。そう、神様がおられ、神様がおつくりになったからこそ、この世界やあなたの「今」は、千輪の花でも表せないほどの美しさをもって、今も奏でられているのです。
この世界のはじまりは、闇であったといいます。闇の中に神様が、光をおつくりになったのだと。光は、愛や善、優しさや赦(ゆる)しとして、この夕暮れ時のように、世界を彩って輝きます。そしてその光の源こそ・・・まったき光、まったき愛、あまりにまぶしい「神様」の姿といわれます。
まぶしすぎる「神様」があれば、顔を覆いたくなるほどに恐ろしい「まったき闇」もこの世界には存在します・・・。それは神様と相反する性質の、神様を憎む「悪魔」がこの世界を治めているからだといわれています。
「神様と悪魔」。闇と光のコントラストの奏でられる世界のなかで、私たちの人生は風のように揺れ動き、万華鏡のように展開します。この物語は、光と闇のはざまにもがく、「からし種」たちのものがたり。「からし種」それは吐息で吹き飛ぶほどに小さく軽い種ですが、育てばそれは大きく育つというのです。「からし種」それは光と闇のこの世界で、神様を信じるささやかな、しかし強い心のことです。
ものがたりの案内人は、ダニエル。神様に仕えるみ使いです。ダニエルは神様に吹き込まれた聖らかな息吹そのもののような、美しい声をしています。み使いなんて見たことない? いいえ、心の目を開けば、きっと感じられるのです。神様やみ使いの霊に満ちあふれた、美しいこの世界のありさまが。そして闇の淵をのぞき込めば、悪魔の気配も感じられるかもしれません。ファンタジーには興味はないですって? とんでもない。この世界は美しく悲しい、ものがたりのような世界なのです。
この世界には数万、数億ものみ使いが、虹色に、またはあめ色に輝きながら、光の中を飛び交っておりますが、ダニエルもまた、その一人でありました。ダニエルは、神様に似た優しく悲しい瞳をしており、海岸沿いの灯台の上に腰掛けて、遠い都会の街明かりを見つめていました。
暗い海はざぶん、ざぶんと、ま白いしぶきをあげてテトラポットに打ちあげておりました。この暗い海の中にも、魚や貝やひとでやなまこ、無数の命が生きています。海はまるで一つの生き物のような意思をもって、波打つようです。
ダニエルはすべてを見通すようなまなざしで、都会の街明かりの一つの窓を見つけました。その窓の中に、凍えるように冷たい孤独を見つけたのです。そして、暗がりの中にからし種ほどの小さな光がありました。その光はダイヤモンドのような無数の色のきらめきで、小さく叫んでおりました。「助けて」と。ダニエルは大きな翼を広げて飛び立ち、大きな風を生みました。
*
リカは鏡に向かって口紅を取り出して、薄い唇に深紅の口紅を引くとほほ笑みをつくりました。不思議です、先ほどまであれほど嫌いだった自分の顔が、世界で一番かわいいように思えるのです。お気に入りのビーズのポーチを斜めがけにして、リカはモルタル造りの小さなアパートを飛び出しました。
少し歩くと、いろんな色の電飾で彩られた出店が並ぶ繁華街が開けます。リカの目の色は電飾を映して、赤、ピンク、緑と輝きました。わに革のピンクのお財布、ラピスラズリのペンダント、シフォンのチュールのミニスカート・・・目に映るものはどれも輝いて見えました。リカはお財布が空っぽになるまでお買い物を楽しみました。そして残った釣銭で、安いカフェに入り、甘い甘いミルクティーを頼むのです。
テーブルの上に買ったものを広げると、戦利品を前にしたように得意げになります。それでもまだまだ足りません。あれも欲しい、これも欲しい、あれがあったならもっとかわいくなれるはず。・・・まだまだ心は空っぽです。
ポーチの中から青いラムネを取り出して、ポリポリとかじりました。今日の夕食はラムネを7つ。リカの体は鎖骨がくっきりと浮き出るほどに痩せていましたが、もっともっと痩せなければ誰からも愛されないような気がするのです。
ラムネをかじり終わって、ふと顔を上げると、不思議です。まるで行ったことも見たこともない、異国の地にいるような気がするのです。誰も自分を知っている人がいないような、誰のことも知らないような・・・。リカは慌てて携帯電話を取り出して、なじみの友達に電話をしました。そしてひとしきり自分のことをしゃべったり、相手の近況を聞いて相槌を打ち、笑いあって電話を切りました。それなのにまだ恐ろしさが抜けません。まるで底なしの虚無、悪魔の目玉の真ん中に引きずり込まれるようでした。ここから一目散に逃げだしたいけれど、足がすくんで動けません。おうちにはとても帰れそうにありません。
リカの座る小さなテーブルの向かい側には、ダニエルが腰掛けておりました。もちろんリカにはダニエルは見えていませんでしたが、ダニエルはさきほどからのリカの様子をじっと見つめていたのです。ダニエルはテーブルの上に並べられたリカの戦利品を見つめると、悲しげに目を潤ませました。
「お客さん、申し訳ないけど、閉店なんです」。店員の声に顔を上げると、お店の中にはもうリカのほかはいませんでした。それでもリカは腰にずっしりと鉛が入ったように動けませんでした。
店員はリカの戦利品をかき集めると、もとのビニール袋に入れ、そしてリカの腕をつかんで立ち上がらせました。よろよろとリカは店の外に出されると、そのままへなへなと路地端に座り込んでしまいました。リカの目からはガラス玉のような小さな涙がこぼれました。
「甘えているわけじゃないの、足がすくんで動かないの」。ダニエルはそっとリカの頭をなぜ、(分かっているよ)とささやきました。ふいに優しい風が吹いた気がして、リカは涙をぬぐいました。そして道路に手をつき立ち上がり、家に向かうことができました。
たまに感じる優しい風・・・まるであめ色の光を帯びているようなきらめく空気は、ある時はリカを優しく包み、ある時は背を押し、ある時は強く抱きしめてくれるのです。リカはそれを「祈り」とか「神様」と呼んでいました。
この世界には、祈る人たちがいるとうわさに聞いておりました。その人たちの祈りが世界に響いて、リカをも励まし包んでくれているような気がするのです。もしくは神様と呼ばれる方がいて、その方がリカをあわれんで優しい風を吹かせてくれているような、そんな気がずっとしていました。そうでなければ、誰も助けてくれる人がいないことは分かっているのに、なぜ自分は「助けて」と叫ぶのだろう、と。
ようやくたどり着いた家の中は、いろいろなものがあるというのに、がらんどうのように思えます。リカは床にへたり込み、冷蔵庫からサイダーを取って飲みました。先ほど買った戦利品を並べてみても、もはや心はときめかず、またいらないものが増えたような気がするだけでした。「おなかがすいた」。リカはつぶやきました。ダニエルはリカの向かいに膝を抱えて座っていました。
(そうかい。だったら叫ぶといいよ。誰か助けてくれるかもしれない。)ダニエルはささやきました。するとどうしたことでしょう、リカは空虚な気持ちが込み上げて、叫ぶことを止められなくなりました。
「おなかすいたー!」「おなかがすいたよー!」目からぽろぽろ涙がこぼれ、まるで赤子のようにリカは泣きました。そのまま床に身を倒し、胎児のように体を丸め、自分の飢えは胃袋よりももっと深い深いところにあることに気付きました。ダニエルはつぶやきました。
(わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。)(イザヤ46:4)やがてリカは安どして、まどろみのなかをたゆとうように眠りに落ちてゆきました。
「助けて」。リカは眠ったままささやきました。ダニエルはリカの足元に目をやりました。その足首には悪魔の足枷がしっかりとつけられておりました。ダニエルは大きく身をひるがえすと、リカの心へとおりてゆきました。
リカの心、それは悪魔の巨大な胃袋の中にありました。その胃の中はかまどの中のように炎がめらめらと燃え盛っており、炎が躍るさまは、幾億もの赤い蛇がうごめいているようでした。ちょうど炎に飲まれる間際のところに、リカの心は浮かんでおります。ダニエルは翼をはためかせて、炎の正体を見つめました。その炎は蛇のように頭を割って、リカそっくりの形相をして、叫んでいます。
「憎いよな、あいつらが憎いだろ」。「信じられない、誰も信じてはいけない」。「この身を焼いてあいつらに復讐するんだ」。「さあ、悪魔の胃袋に飛び込んで、悪魔と一つになってしまえ」
炎の蛇たちに今にも焼き尽くされそうになりながらも、リカの心は震えていました。そこに耳をつけ、ダニエルは声を聴きました。「助けて」と。その声は虹色の涙で出来ていました。ダニエルは虹色の涙をのぞき込みました。そこに映っていたものは、ペンキの剥げた白い柵。その向こうにはラベンダーの咲く庭があり、廃墟のようにがたついた一軒の小さなおうちがありました。ダニエルは両腕の翼を閉じると、体を小さくして、その家の玄関の前に立ちました。
鳥の彫刻の剥げた木の扉、それをダニエルはノックしました。「はぁい!」元気のいい幼子の声がします。そしてギィッと扉を押し開けたのは、5歳児ほどにみられる小さな少女です。お母さんの化粧品でおめかしをしていたのでしょうか。目には水色のアイシャドウ、唇には真っ赤なリップがはみ出して、まるで道化師のようでした。
「こんにちは」。ダニエルはかしこまってあいさつをしました。少女は目を丸めて、「天使さん?どうして天から降りてきたの!?」はしゃいで中へと招き入れました。小さな家は大きな一間でなっており、台所や机やベッドの上に色とりどりのドレスや帽子がぎゅうぎゅうに積み上げられておりました。
「お洋服を集めているの?」ダニエルは聞きました。少女は首を振り、いろんな色のシャドウやチークのパレットを見せました。そして真珠貝で出来ているブレスレッドやバラの花びら入りのペンダントも。
「おしゃれが好きなのかな?」ダニエルはほほ笑みました。少女は突如暗い顔になり、「私がかわいくなれば、お父さんとお母さんはきっと帰ってくるでしょう」とぽつりと言いました。続けて、「お前はかわいくないやつだ。って、いつも言っていたのだもの」。そう言ったかと思うと鏡に向かい、口紅を引き直しました。
「鏡よ鏡。世界で一番かわいいのは誰ですか」。そして一人芝居を始めたのです。「それはもちろんリカちゃんです」と。ダニエルはそのお芝居を見つめていました。そして少女を抱きしめるとささやきました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
少女はきょとんとして聞きました。「天使さんが私を愛してるの?」ダニエルは首を振りました。「私だけではない。神様が君を愛して、迎えにこられているんだよ」と言いました。
「神様?」ダニエルは深くうなずきました。「まだまだつらい時は続くだろう。でも君は、神様を信じる強さで生き延びて、そして光を見るだろう」。そう少女を見つめて言いました。少女は目を丸めたまま、「光を見るのは、いつのことなの?」と聞きました。ダニエルは白い衣の中に手を入れて、美しい本を取り出しました。そしてある箇所を指さして、読みました。
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩編139:13~16)
そう読み終えると本を閉じ、「この言葉を涙をもって読む日だ。その日はもはや君の書に書き記されている」と言いました。少女はダニエルの腕をぎゅっと握って、「じゃあその日まで、私と一緒にいてくれる?」と聞きました。ダニエルは首を振って言いました。「私たちはいつもあなたと一緒なんだよ。あなたが生まれたその時から」と言いました。
「そんなことないわ。私ずっと独りぼっちだったわ」。少女はそう言いました。ダニエルはなだめるように少女の頭をなぜて、「夕暮れや朝焼けや、昼のうだるような暑さを、君は知っているだろう? 光を、闇の中に浮かぶ無数の光だって君は知っているだろう? どこにだって、私たちは必ずいて、君を見ていない時は一日たりともないんだ」と言いました。
「気付かなかったのはどういうわけ?」首をかしげる少女に、「そう、目に見えるものばかりに目を留めていたら、本当のことが見えなくなるんだ。それがこの世界の仕掛けなんだよ」と優しくほほ笑み、窓の向こうのラベンダーに目を留めました。ダニエルは立ち上がって窓を開き、そのラベンダーを両手いっぱいに摘みました。その一輪を少女の髪の毛に挿し、残りを少女に渡しました。
「このことを覚えていてほしい。あなたはかならず素敵な女性に育つだろう。素敵な女性にふさわしく、あなたは自分を大事にして、そしてどんな人をもゆるすことだってできるだろう。たくさんの人を心から愛し、愛される人になるだろう。光の源を探すように、いつか神様のところにたどり着くだろう」
少女はまっすぐにダニエルを見つめ、「うん、忘れないわ」と言いました。ダニエルはほほ笑むと、光に溶けるように姿を消してゆきました。その時、ダニエルはリカの心を抱きかかえて、悪魔の胃袋を突き抜けておりました。
目を開けると、ダニエルはもとのリカの部屋におりました。リカは何も知らないように、すやすやと眠っております。足元に目をやると、その細い足首の悪魔の足枷は、砕かれたように外れておりました。ダニエルは安心したようにほほ笑むと、手をかざして光のベールの毛布をつくり、リカにかけてやりました。そして手を組み、ダニエルの主人である神様に長い祈りをささげました。
リカは朝日のまぶしさに頬を焼かれて、目を覚ましました。不思議です。こんなにまぶしい朝は久しぶりのような気がします。心に張り付いていた澱(おり)のような淀みも根こそぎ消えているようで、なんて心は晴れやかなのでしょうか。リカは何かを探すようにあたりを見回しました。そしてカーテンの隙間から差し込む光が、虹色にきらめいているのをじっと見つめてほほ笑みました。
「それにしても」と部屋を見渡しました。部屋中に散らばった昨夜までの戦利品の数々。壁に掛けられた大量の衣装と机の上や棚の上にもぎっしりと並べられた化粧品・・・。リカはわけもなく片付けがしたくてしょうがなくなりました。アパートの下の掲示板に、バザーの出品の募集チラシがあったことを思い出して、腕をまくり、片っ端からごみ袋に詰め込みました。洋服は洋服、化粧品は化粧品と分けてみると驚きました。ほとんどの化粧品が封も開けられてもおらず、服もタグも切られていなかったのですから。心はうきうきとするばかりでした。まるで昨日までとは違った新しい心が与えられたかのようでした。
ぱんぱんになるまで膨らんだごみ袋を両手に抱えて、リカはアパートの階段を軽やかに下りてゆきました。そして掲示板を見て、バザーの会場を確かめました。すぐ近くの公園です。リカの顔は昨夜の化粧が残ったままでありましたが、太陽の光を浴びて愛くるしく輝いておりました。希望にあふれて走ってゆくリカの姿に、道行く人が振り返ります。
公園に着くと、大勢の人がバザーの準備をしていました。リカはその一人に袋を渡し、「まだまだあるんです」と息せき切って、また来た道を走ってゆきました。すると、懐かしいにおいがしてふと足を止めました。振り向くと花屋さんが開店したばかりで、その軒先にラベンダーがよい香りを放ちながら並べられていたのです。
リカはふいにラベンダーに顔を近づけ、目をつむりました。どうしてでしょうか、涙が出ます。懐かしい何か、焦がれ続けた故郷のような景色が見えるかのようです。ポケットをまさぐり、小銭を掴みました。そしてリカは一本のラベンダーを買ったのです。それを頬に当て、においをかいで、今度はゆっくりと歩きました。
じっと空を見つめると、太陽の光が虹色の輪になって空ににじんでおりました。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。