「お父様、どうして私ばかりぶつの?」そう言う私は幼子で、拳を振り上げる天のお父様を見上げていました。私は涙をぽろぽろと流しておりましたが、お父様の目も、熱い涙でうるんでいるようでした。お父様の目は言っているようでした。「おまえが大切だからだよ」
私は泣きはらして、緑の葉が風に波打つ草原を抜けて、大きな沼のほとりに出ました。倒れて朽ちた木に腰かけて沼を見つめていると、大好きなお兄様のイエス様が、私が泣いていることに気が付いて隣に座ってくださいました。
「…天のお父様は私ばかりに厳しいの」。私は口元をゆがめてつぶやきました。イエス様は私の小さな頭を撫ぜるとほほ笑みました。そのほほ笑みは言うようでした。「お父様は、私にもそうであったよ」
気が付けば明け方で、私は柔らかなベッドの上で目を覚ましておりました。窓の外では元気に小鳥たちが鳴いていました。網戸からは暖かくさわやかな風が抜け、私を包むようでした。もう老年も間近だというのにこんな夢を見るなんて、私はどうしたことでしょうか。
朝になると決まって腰が痛みます。腰をかばいながらベッドを降りて温かな毛糸のガウンを羽織ると、台所にお湯を沸かしに行きました。
私が住んでいますのは、小さな平屋のお家です。古い家ですので、いろいろとガタもきておりますが、そのガタすら、なんだかいとおしく思えるのです。わずかな年金と母が残してくれた遺産を頼りに、ささやかですが守られて毎日生かしていただいているというわけです。
沸いた湯をお気に入りのカップに移して、台所の小窓のふちで元気に伸びてくれているミントをちぎって浮かべたら、私と同じくくたびれた椅子に座ります。白湯が喉を通って、胸がじんわりと温められると、さざ波のように世界の音が聞こえてくるようです。鳥たちの鳴き声、虫たちの歌、近くの沼で水鳥が羽をひるがえす音さえ聞こえてくる気がするのです。太陽が世界を温めだしたら、小さな庭の花たちに水をやり、長い一日が始まるのですから。夫もなく、子どももない私は一人ぼっちの寂しい女に見えるでしょうか。残念ながら、実はそうではないのです。今日もいとおしい神様と共に、一日を歩めることに心は踊るばかりなのです。
玄関の濡れ縁には、猫たちが寝そべって、私がご飯を持って出てくるのを待っています。お皿にカリカリを流し込むと、次々と勢いよく食べ始めます。庭の蛇口でお椀を洗い、きれいな水に変えてやり、木箱の中の猫のトイレもきれいに掃除してやります。近所付き合いはたいして得意ではありませんが、猫たちとの付き合いは気楽なものです。よく目やにや鼻を垂らすこの子たちを、病院に連れて行くことも大切な私の仕事です。みんなおうちに入れてあげたいけれど、この子たちは突っ張り者で、なかなか抱かせてもくれません。時折無理やりにかごに入れて病院に連れて行く私のことを、あまり信用していないのです。
次は、庭木や花に水をやります。とっても小さな庭ですが、春には月見草、秋にはコスモス、冬には白モクレン、梅雨の時期にはアジサイが咲いては、天のお父様からの贈り物のように私を喜ばせてくれるのです。日曜日は電車に乗って駅の一つ隣の町にある教会に行くのですが、寒い冬の朝などは体が動かず、行けない日もありました。それでも、イエス様の愛された、イエス様のからだといわれる教会を心から愛しているのです。…さて、日が高く昇らないうちに、天のお父様が私にお与えくださった、この街という私のお庭を散策に出かけるといたしましょう。
寝間着を脱いで、大きな綿のワンピースを羽織ってエプロンをかけたら、髪を束ねて出かけましょう。共に歩いてくださるのは、大好きなお兄様、イエス様。目には見えなくても、イエス様が私と共に一歩一歩連れ立って歩いてくださっていることを、その暖かな日差しのようなまなざしを、感じることはできるのです。
畑の中に、ちらほらと家々が建っています。畑には、虫よけに植えられたマリーゴールドたちがオレンジ色に輝いてパッとほほ笑んでくれています。小さな高台にある私の家から急な斜面を下ると、雄々しい木々に囲まれた、深い沼が見えてきます。沼の周りには黄色いカンナが野性味を帯びてそれは威風堂々と咲き乱れているのです。この大きく深い沼を見渡せるお気に入りのベンチに座ったら、雲が流れるのを見つめましょう。天のお父様が次々と空に描かれる、美しい絵に見とれましょう。そこから光がにじんでゆくと、私のまなざしはあなたへの賛美へと変わり、輝きだすでしょうから。
サンダルを脱いで、ひんやりとした土に足の裏を落として目をつむると、この地球の大地の鼓動が聞こえてきます。あなたが愛し、養われる、この美しい地球という星が、漆黒の宇宙の中でひときわ輝きながら今も回っていることすら感じられるようなのです。青い空の上に、漆黒の宇宙が開けて銀河が回り、流星が砕ける音さえも聞こえてくるようなのです。風が私に触れます。まるであなたの御手のように。私は小さな幼子のようになって、その御手に抱かれます。すると、花びらで縁取られた、さくら色の時計がくるくると回り始めて、私を記憶の旅にいざなうのです。あなたという安息にたどり着くまでの、決して平たんではなかった人生が、めくるめいて思い出されてゆくのです。
幼子の私はつぶやきます。「天のお父様は私ばかりぶったのよ」。すると、愛するお兄様のイエス様が、優しく語ってくださるのです。「お前のことが、特別に大事だったのかもしれないね」と。
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♪やっとこやっとこ繰り出した、おもちゃのマーチがラッタッタ♪人形の兵隊せいぞろい、お馬もわんわもラッタッタ♪
母が古びたエレクトーンを弾きながら歌ってくれるのが聞こえてきます。エレクトーンの下で美しい母を見上げながら、私も一生懸命歌っていました。曲の合間で母は時折私を見てほほ笑んでくれました。そのほほ笑みがどんなにうれしかったことでしょう。母が笑っていると、世界は輝くようでした。また、母が泣いていると、世界は雨だれのようでした。美しくやわらかな母を、私は愛していました。
私と母は、母一人子一人で団地に暮らしておりました。10棟以上が連なる巨大な団地は、芝や木々、季節の花に囲まれておりました。夜になると団地の小さな窓々がそれぞれのカーテンを反射して、青、ピンク、黄色に黄緑と色づいているのがとても幻想的でした。
母のやわらかな腿に頭をのせて、母が絵本を読んでくれるのを聞きました。「どうしてきつねさんはいじわるなの?」そう聞く私に母はほほ笑み、「きつねさんも本当はいじわるじゃないのよ」と応えてくれます。母のぬくもり、母の声色…なんと心地よかったことでしょう。
母は時折、悲しそうな顔をして「ごめんね」と私を抱きしめると、扉を固く締め、家を出ていきました。テーブルには、たくさんのおにぎりが握ってありました。そうすると、母はなかなか帰ってこず、一晩帰らないこともありました。私はもう母が帰ってこないような気がして、胸が引き裂かれる思いで泣きました。叫び疲れて、泣き疲れて眠るまで。
母は私を育てるために、居酒屋で働いていたようでした。しかし本当のところは、いまだによく分からないままであります。ただ、はかなげで、美しかった母の姿が焼き付くように残っているのです。
そんな母のいない家で、私は世界でたった一人、取り残されたように寂しかったものでした。私はまだまだ知らなかったのです。そのすべての時を見つめてくださっている天のお父様の存在を。私の涙の一粒一粒を、覚えてくださっているお方のことを。ですから地団太(じだんだ)を踏みました。ふすまや壁に当たり散らし、声が枯れるまで叫ぶしかなかったのです。
…この世界が創られるより前から、私の日の一日もないうちから、私のすべてをご計画くださり、心に留めておられたお方のことを知ることもなく私は育ちました。母の胎のうちで私の骨を形づくってくださり、臓器の一つ一つを愛でるようにお造りになり、髪の毛の一本も残らずに数えてくださった方のことを、知ろうともせず、考えようともせず、私は歩き、走れるようになり、髪の毛も背丈も伸びていったのです。(つづく)
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、東埼玉バプテスト教会の母教会である我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫4匹と共に暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「ところざきりょうこ 祈りの部屋」。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。