地の一体に、闇が広がっておりました。へどろのように重い闇が、この世界を覆い尽くそうとしておりました。闇は暗い声で、ささやいておりました。「友達よ」。そして誘っておりました。「この虚無へおいで、そしてその日の悦楽を愉(たの)しもうではないか」
闇からは、無数の触手が伸びており、その触手は一つ一つ自分の名を名乗り、人の足首を掴もうとしておりましたが、それは重く波打つ海のように一体でした。
ある触手はこう名乗りを上げました。「私はデミオン。あなたの友だ」。三日月のように光る眼が、人をとらえました。ある人は、そのささやきに耳を傾け、部屋の隅の暗がりを見つめました。そして合言葉のようにささやきました。「そう、闇こそ、私の友達。私を分かってくれる」
人の心の悲しみに、人生の孤独に、胸に渦巻く暗闇に、デミオンはするりと忍び寄り、その中に巣くいました。
デミオンが特に好んだのは、そのからだのうちに、神の霊を宿している者たちでした。その者たちをとりこにすれば、デミオンは頭(かしら)からの褒美をそれはたくさんもらえるのです。そして、神の霊を宿しているといっても、その霊に照り輝くように、全身にスキがない者などほとんどいなかったのです。
ある人は目ががら空きで、物欲しそうにほかの人と自分を比べました。デミオンはその目に棲み付きました。ある人は口ががら空きで、うわさ話や悪口をやめることができませんでした。デミオンはその口に棲み付きました。ある人は耳ががら空きで、この世のことに耳をそばだて、興味を引かれました。デミオンはその耳に棲み付きました。ある人は手ががら空きで、その手にはこの世の富や誇りが固く握りしめられておりました。デミオンはその手に棲み付きました。そして信仰者たちが、神様に与えられた聖い霊とデミオンの誘惑のはざまで、体がちぎられるほどにもがき苦しむことが、楽しくて仕方なかったのです。
たとえ目が覚めているときは祈りに勤めている者であっても、眠りに落ちる間際の無防備にデミオンは滑り込みました。そして忘れることのできない過去や、つらい思い出を思い起こさせ、眠りの中で悲鳴を上げさせて遊びました。
デミオンにとっては、人間の体は遊技場、この世界は大きな遊園地のようでした。
ダニエルはまばゆい光に溶け入りながら、その様子を見つめておりました。その瞳は、神と同じく眠ることなく開かれておりました。その目は言っているようでした。「あわれな者よ」。しかしデミオンは甲高く笑い、再びある人の心の暗がりのうちにするりと入ってゆくのです。
彼女は、夜ごとに祈っていました。「どうかイエス様、私のからだのすべてをその聖さで満たしてください。そしてどうか、罪を犯さないようにしてください」
彼女の部屋は三畳半に満たない小さなもので、神様について勉強する木彫りの机と、疲れた体を横たえるベッドだけがありました。優しい彼女が大好きな2匹の猫が、ベッドの上で丸くなっておりました。ベッドの脇の目覚まし時計は、夜中の1時を差しており、彼女はあくびして猫たちを引き寄せてベッドの中に入りました。
眠る間際まで、彼女はイエス様のことを想っていました。「私たちの主は、枕する所もなかったというのに、このように温かな寝床のある私は一体何者なのでしょう」
そんな彼女でありましたが、眠りの中にデミオンが滑り込んだのです…。彼女は、真夜中に階段を降りてくる、何かの気配を感じました。それはとても恐ろしい気配で、人間とは思えないものでした。その気配は、彼女の上に覆いかぶさるようにのしかかり、体はこわばり、動けなくなりました。「イエス様、どうか助けてください、この家にはいったい何者が棲み付いているというのですか?」そう助けを求めました。じわりじわりと真綿で首を絞められてゆくことを感じます。それは夜ごとに繰り返される、彼女の悪夢でした。
朝になると、天井がゆっくり回っていました。起き上がろうにもめまいがひどくて体が言うことを聞きません。そうこうしていると、低い声で「まだ寝てるのか」と彼女を責め立てる声がしました。「飯も作らないで」。吐き捨てるような声が聞こえます。ボーっと汽笛のような耳鳴りが響いて、そんな夫の声色も、耳鳴りの中でぼやけてゆきます。
「ごめんなさい、めまいがひどいの」。彼女はそう言うと、ベッドの中にもう一度もぐり込みました。
「片付けもできないのか」「飯はこれだけか」。彼女の頭の中に、夫の言葉がとぐろを巻くように居座って、彼女を責め続けます。その言葉は彼女の頭を重くして、めまいや頭痛となって表れました。
彼女は教会を愛しておりましたが、それでも、ほかの人たちは皆良い夫を持っているように思えて、心に寂しさを覚えました。
「また教会か」。そう吐き捨てる夫を、彼女は見ました。彼女の目に、デミオンは宿っておりました。嫌悪、憎悪、あらゆる疎ましきものを見るように、彼女は夫を見たのです。夫は以前からその目に気付いておりました。そして吐き捨てました。「何が神だ」
動悸が激しくなり、血圧が上がってゆくことを感じました。頭が熱い血でいっぱいで、今にも破裂しそうになって、彼女はその場に倒れ込んだのです。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえました。優しい救急隊員の手が彼女を抱き上げる感触に、心は安堵しておりました。
真夜中に目が覚めると、彼女は暗い病室におりました。不思議と心は落ち着いておりました。まるで病室が七色の祈りで満たされているように感じました。
病室の扉にうっすらと人影が現れました。静かに扉が開くと、ひとりの人が、音もなく入ってきたのです。その人はとても背が高く、暗闇でよく見えなかったので、看護師の巡回だと思いました。
その人は彼女のベッドに近づくと、そっと手首を取りました。その手は何とも言えず優しい感触で、心がほどけるように涙がこみ上げました。
「つらいのですね」。その人は言いました。彼女は涙をぬぐいながら「つらい」と答えました。深くうなずくその人は、「知ってる」と言うようでした。
「さびしいのですね」。その人は言いました。彼女は答えました。「さみしい」。深くうなずくその人は、「知ってる」と言うようでした。
「愛されたいのでしょうか」。その人は聞きました。彼女は一瞬驚きましたが、その口は「そう」と告白しました。深くうなずくその人は、「知ってる」と言うようでした。そしてその人は、くらくらするような美しい声色で、こう言ったのです。
「しかしあなたも知らなければならない。どんなに神様があなたを想い、心配し、愛しているかを」。彼女はつい言いました。「だったら神様はもっと良いものを与えるでしょう?」
その人はゆっくり首を振るようでした。「そうでしょうか。良いものを与えられて、愛されていると知ることは簡単なことです。しかし、悪いものを与えられながら、それでも神に愛されていることを知れる者は幸いです。その愛の深さを知るからです。あなたには、そんな ‘本当に幸いな者’ になってほしいのでしょう」
彼女は驚きました。そして「あなたは?」と聞こうとしたとき、その人がわずかな光に溶け入るように消えてゆくのを見たのです。
彼女はしばらく呆然とし、「私は何を見たのでしょう…」と神様に聞きました。
退院の日に迎えに来た夫は、めずらしく優しい声で「大丈夫か」と聞き、彼女の荷物を持ってくれました。
デミオンはそれでも誇り顔。彼女の人生を楽しい遊戯場のように思っては「愉快だな」と笑いました。ダニエルはそれを見つめて「あわれな者よ」と言いました。
彼女は、まだまだ繰り返し誘惑に晒されることでしょう。神の愛の招きの激しさが、彼女に試練を与え続けるのかもしれません。しかし、「はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかける」(1コリント4:12)。そんな主ご自身が、彼女を守ろうとしておりました。
彼女は口をキッと結んで、デミオンの待ち構えるわが家に帰ってゆきました。その手はとても久々に、夫の手を握っていました。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。