悪がケンの体にまとわりついておりました。罪が、ケンの足首を離しませんでした。
ケンは聖書を握りしめ、助けてくれと叫んでいました。どんなにみことばを読んだって、どんなに聖書を教わったって、ケンの中にはいまだに憎しみ、ねたみ、ひがみが蛇のようにとぐろをまいて居座っており、悪口やうわさ話の匂いのするところが大好きで、寄って行っては憂さを晴らしていたのです。
「私たちは、自分の罪をキリストと共に十字架につけたのです。私たちはもはや死体であり、生きているのは私たちのうちにあるキリストです」。牧師の言葉を信じて、生まれ変われる希望を何度も持ちました。しかし、それでもケンは、肉に染み付いた罪のままに、人を陥れ、自分を傷つけるような暮らしぶりを繰り返してしまうのです。
受話器を握りしめて、同じ教会に通う仲間と、牧師の悪口に花を咲かせておりました。その仲間のことも、心の底では信じられず、結局愛せるのは自分だけというありさまです。
「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」(1ヨハネ2:11)。みことばがいまいましく思えました。それであっても、ケンはキリストに捨てられず、またキリストを捨てることはできませんでした。これほどに俗悪である自分のために、十字架についてくださったキリストにしがみつくしかできず、声を振り絞って叫んでいました。「助けてくれよ」
キリストを信じる前から、ケンの暮らしは破綻し切ったものでした。親のすねをかじって働くこともせず、親に借りてもらった部屋で、酒と薬に明け暮れました。自傷行為を繰り返した揚げ句に収容された病院で聖書に出会い、退院するや否や、教会に通い始めました。
教会で聞く話は、ケンに希望を与えました。このような自分さえ、神の霊によって生まれ変わり、新しく造り変えられるというのですから。そして神のお与えくださる霊は、永遠性を持っており、神様をその身に受け入れたケンは、もはや神様と共に永遠に生きられるというのですから。
ケンの人生は、良いものを受けたことが乏しい人生でした。そんな人生において、これほどに良いものを与えてくださった天の父に感謝しました。このような自分のために、十字架についてくださったイエス様を、火照る心で愛しました。その愛はどんなクリスチャンにも負けない自負がありました。それだというのに、ケンは自分を、そして他者を愛することがどうしてもできなかったのです。ケンはあまりにも、イエス様を信じる以前の人生で傷ついていたのです。
カーン、カーン、と耳の奥で音がします。それは、金づちでイエス様の両手、両足に、杭の打ち込まれる音でした。そして、ともに自分の両手両足にも、熱いものを感じました。そして、はらわたが煮えるほどの痛みがありました。この呪われた罪の体が、イエス様と共に十字架についてゆくようでした。「やっと死ねる」。吐き気がするほどに、罪の呪いの染み付いたこの体を、ようやく殺すことができるのだ。ケンは何度もそう思いました。そして、屍になった自分のうちに、今度こそ神様の霊が脈々と流れ始めて、自分はもう罪に負けない者になれるのだ。
そうやって、自分をイエス様と共に十字架につけたつもりになっても、繰り返し、肉は生き返り、ゾンビのような生命力で再び罪に侵されました。「このみじめな私を救ってください」。ケンは膝から崩れ落ち、涙ながらに告白したものでした。
ダニエルは、はるか彼方から、ケンを見つめておりました。湿り切った部屋で、カーテンも閉ざし、固い布団の上でうずくまるケンのことを。お菓子の空袋やたばこの吸い殻が散らばった小さな部屋に、分厚い聖書がその荘厳な輝きを放ちながら、枕元にありました。それはまるで、ケンの心の部屋そのもののようでした。
「見なさい、春が間近に迫っているのです」。ダニエルがそうささやくと、カーテンが揺れて小さな部屋に光の筋ができました。ケンは虹色の彩光を帯びた光を、ぼんやりと見つめました。ふらりと立ち上がり、窓の外を見ると、窓の向こうの細い川沿いに黄色の桜の花が咲き乱れているのが見えました。
ケンは、何かに導かれるように履きつぶしたスニーカーをひっかけて、外にふらふらと出てゆきました。何ということでしょう。ケンが心の暗闇にうずくまっている間にも、季節のページはめくられて、もう今ここに、春は来ていたのです。暖かな風が、ケンの体を包みました。それはまるで、神様がケンを、抱きしめてくださるかのようでした。チュンチュンと、スズメたちがさえずって、木の枝にとまります。先日まで固く結ばれていた桜のつぼみも、日の光を受けてゆっくりと花開いていたのです。桜色の花びらがケンを包み、桜の向こうの空には薄いベールのような雲が、ゆっくりと流れておりました。
ケンの唇は告白しました。「あなたはなんてはかり知れず、麗しい方なのでしょうか。私はなんてみじめな者なのでしょうか」。そう言うと、涙が一筋こぼれました。ケンは、桜並木をよろめくように歩き、大きな切り株に腰を下ろしました。そして、風を一身に受けました。その風はまるで、神様の使いのようでした。ケンは風に話し掛けました。
「夜ごとに、自分を十字架につけて、そうしたらいつかゾンビのような生命力を持つこの肉も、疲れ果て、本当の屍になれるかもしれないでしょう? そうしたらいつか、その屍のうちに、神様の美しい霊が流れ込み、僕は神様の麗しさにあずかれるかもしれないでしょう? それだけが、この呪われた僕の希望なんだ」
風はその優しいぬくもりのうちに、麗しい、み使いの輪郭を現してゆくようでした。風の中に棲む神の霊は、兄のように優しくケンに語り掛けました。「神様は魔法のように、奇跡のようにあなたを造り変えはしないでしょう。しかし、あなたの座っているその切り株を見なさい」。ケンは切り株を見ました。切り株はもう乾き切って、たくさんの空洞ができていました。それは明らかに死んでいるようでした。
「たとえ切られても、その命がついになくなるまで、長い時間を要します。そのように、神様もゆっくりと、古いあなたを死に至らせるでしょう。そして、枯れた木が再び芽吹きを迎えるようにゆっくりと、それは美しい神の時でもってあなたを作り変えてゆくでしょう。イエスと共に死ぬ・・・それは簡単なことではありません。イエスが十字架にあっても長い時間を苦しみ、ついに神様に召されたように、イエスと共に、苦しみを甘んじて受けなければなりません。少しずつ、一つ一つの細胞は力を失い、死は来たるのです。苦しみなさい。自分の罪を悲しみ、十字架に己の罪をつけ続けなさい。神様は必ず、古いあなたを死に至らせ、新しいあなたへ、神の息を吹き込んでくださいます」
ケンは、切り株に優しく触れて、この木が切られ、長い時間を要して枯れ果てていったことを想いました。それは、途方もない時間であったことでしょう。目を上げて桜の花びらを見つめました。その花びらたちもまた、幹の中で、枝の中で、1年という歳月を準備されてようやくつぼみを生み、つぼみを膨らませて今、花開いていることを想いました。いのちの孤独な道のりを通って、今、彼らの姿があるのだと思いました。
その時ふと、肩にぬくもりを感じました。目をやると、そこに神の霊を受けたみ使いが、ケンの肩を抱いて隣に座っているのが見えた気がしたのです。「それは、決して孤独な道のりではないのだよ」。そう、そのほほ笑みは言うようでした。ケンは口を開いて何かを言おうとしました。すると、み使いの姿は消えていました。そして、ふと気付くと、切り株の脇に一本の若枝が生えようとしているのを見たのです。
ケンの心は力を受けていくようでした。風を感じました。空を見つめ、また桜の木々を見つめました。そして、日暮れて寒くなるまで、ケンは世界を感じていました。神の霊で満たされている、この世界を。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。