トモコは、一歩歩くごとに街灯の明かりに反射して道を照らしてくれる、水銀色のアスファルトを見つめていました。もうどれほど歩き続けたことでしょうか。ヒールのあるサンダルを履いてきてしまったことを後悔しました。サンダルは足の甲にめり込んで、赤く血が滲み始めておりました。
バッグの中では携帯が鈍く音を立て続けておりました。夫のシュンからの着信であることは分かり切っておりました。近くのファミレスで、夫婦で夕食を済ませた後、車に戻らずに突然一人で歩き出したトモコの行方を心配しているシュンの姿は、安易に想像できました。
夫と共に住み始めたこの町には、小さな沼がありました。暗い沼は緑に囲まれており、それを取り囲むように遊歩道がありました。いくつか木のベンチが置かれており、トモコは突然、そこに座って沼を見たくなったのです。
この町に来てから、よく沼に散歩に出かけていました。暗い沼は重々しく波打っては、沼の中に棲む無数の命たちの息の根を感じさせました。沼を見つめていると、神様からの語り掛けが聞こえるようで、喜び勇んで沼を見つめに出かける日もありました。また、心の糸が絡まって、どうしようもないときにも神様に会いに行くように、沼に行ったものでした。
近頃は、夫と心がすれ違うことが幾度となくありました。声を荒げてけんかをしたことも一度ではありませんでした。今夜の夕食をとったファミレスでも些細なことでトモコは夫をなじり、冷たい目でにらんだのです。聖書には、このようにありました。
「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(エペソ5:22)
まるでそのように夫に従えない自分に、いら立っておりました。
シュンとの結婚は、神様に喜ばれていると信じておりました。神様の導きに従った、信仰深い夫との結婚はどんなに祝福にあふれたものかと、期待に胸を膨らませたものでした。しかし、2人ともにある喜びもありましたが、2人わがままをぶつけあう醜さにも直面せざるを得ませんでした。自分の中に、こんな醜さや甘えがあることをまざまざと見せられるようでした。
信仰を持ってから、どこかしら自分を神様に選ばれた者のように誇らしく思っていたことに気付かされ、恥ずかしさで顔がほてるようでした。心のどこかに膨らんでいた自信やおごりが、結婚生活の中で崩されてゆきました。
神様に対して、夫に対して、恥ずかしさの風船がパチンと弾けてしまったように、トモコはシュンの待つ車には乗らずに、沼を目指して歩きだしたのでした。
沼のベンチで一晩過ごそうと思っていました。いつか仕事もなく、人生の行く当ても定まらず、唯一の財産である軽自動車に荷物を詰め込んで旅をしたことがありました。その旅の中で、シュンと出会ったことは懐かしい思い出です。気が付けば、教会で結婚式を挙げてたくさんの兄弟姉妹に祝福され、必要は満たされるようになっていました。「あなたは祝福されているわ」そうたくさんの人に褒められて、ぜい肉のように何かがまとわりつきました。いつか一台の車に衣服や毛布を詰め込んで旅をしたあの日、自分には何もないことだけは知っていました。何もないから、神様と出会うことができました。
帰る家や頼れる教会、どんなトモコも受け入れてくれる夫がいることが、なんだか今は嫌でした。持ち物もなく、誇れるものもなく、だからこそ目の前にその御顔が見えるほどに、近しく神様と出会えた日を懐かしく思いました。みことばは、命そのもののように、体に流れ込んできたのでした。神様の黄金の輝きが、頭上に滴り落ちることも感じられるほどに。
シュンと共に朝の5時に聖書を読む今の日々より、ずっとみことばは重く、熱いものでありました。いつの間にかぶくぶくと太って、みことばも食べ飽きたと言いかねない今の自分が、‘祝福されている’ とは思えないでいたのです。
鈍く振動する携帯をふと見ました。画面には何十件ものメッセージが入っており、開いてみると夫のシュンからのものでした。
「おーい」
「どこに行った?」
「いったい何があった? 駐車場で待ってるよ」
「迎えに行くから返事を下さい」
そんなメッセージが次から次へと送られてきておりました。トモコは携帯をしまって、また歩き始めました。永く生きた雄々しい木々が増えていき、沼が近づいたことを教えました。木々の間をかいくぐると、沼を取り囲む遊歩道に出、夜闇よりももっと暗い、沼が姿を現しました。沼は鈍く波打ち、月明かりを反射して揺らめいておりました。トモコはぼんやりと沼を見つめながら、ベンチに倒れ込むように座りました。足は疲れ切って、棒のように感じます。血のにじんだ足元からサンダルを脱いで、土に足を下ろしました。土はひんやりとして、トモコを包み込んでくれるような優しさを感じました。
ゆらゆらと揺れる沼の底から、声が聞こえるようでした。沼の中にはどれほどの小さな命が生きていることでしょうか。カモやサギたちだけでなく、沼の中には亀や魚も泳いでいることでしょう。トモコが見たこともない、小さな命もたくさん生きていることでしょう。沼はその命たちを抱きかかえ、母のように憩わせておりました。
沼から生ぬるい風が吹いてきました。それは大きな風で、トモコはその突風に晒されました。気が付くと、暗い沼の影そのもののように、黒い衣服に身を包んだ背の高い人がトモコの前に立っていたのです。その人はじっとトモコを見つめると、そっとトモコの隣に腰かけました。その人からは、底知れぬ沼の気配がしました。また沼の映した天界の星々の気配さえしました。
「ずいぶん歩いてきましたね」。その人はそう言いました。トモコはまるでこの世の人に話すのではないように、「そうね、足は棒のようだわ」とつぶやきました。
「疲れただろうね」。その人はすべてを知っているようにそう言いました。トモコは首を振りました。「いいえ。もう帰る所だって柔らかいベッドだってあるのだもの」。そう言うと、力なく笑いました。
「そうですか。そのベッドは疲れも十分に癒やされますか?」その声色は、まるで沼のささやき、そして沼に映し出された天界のささやきのようでした。「そうね。枕する所もなかった主を思えば、こんな立派な寝床があることが不思議で仕方がなくなるわ」。そう言いながら涙がぽつぽつと落ちていきました。
その人は深い深い沼の底のような、または宙の暗がりをはらんだような声色で、悲しそうに言いました。「あなたは自分に必要なものをご存じです。ですから、求めるといいでしょう。それだけをただ、求めるといいでしょう」。そう言われて、トモコははたと気付くようでした。気が付けば、自分が求めてきたものは、人並みの暮らしや、日々の暮らしの必要が満たされることばかりでありました。そしてそれを手にしたところでどうでしょう。このように、主を求めて、夫を置いて歩き出したのですから。
「主は言われました。『まず、神の国と神の義をもとめなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ6:33)」
トモコは驚いてその人の顔を見ようとしました。その人の顔は、沼のきらめきのように、また夜空の星のように輝いていて、よく見えませんでした。トモコは告白しました。「みことばは真理です。しかし私には自信がありません。私は日々の誘惑に負けるばかりで、みことばに従うこともできないのですから」。するとその人は、それは優しい声で言いました。
「ではその罪に泣けばいいでしょう。イエス様の十字架にすがって泣けばいいのです」。優しい声色にほだされるように、涙がこみ上げました。「そうね、情けなくて、涙ならいくらでも出てくるわ」
そしてトモコはおいおいと泣きました。イエス様の十字架が、沼の上に広がる空に見えるようでありました。そんなトモコを、その人は抱きしめるようでした。それはもはや人ではなく、生温かい沼の風そのものでありました。
ダニエルは光にさざめく沼の中をくぐり、空高く昇りました。そして夜空の闇の中のきらめきにその身を溶けいらせて、沼のほとりのベンチで泣くトモコを見つめ、風のようにささやきました。
「自分の罪のみじめさに泣く人は幸いです。その人は主によみせられることでしょう。主は『高ぶる人を敵対し、へりくだった者には恵みを与える』(ヤコブ4:6)と言われる通りです。また、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』(ヤコブ4:5)と言われている通りです。主がねたむほどに慕われる、その御霊のままに歩みなさい」
トモコは鳴り続ける携帯を手に取りました。そして心配するシュンに謝って「ごめんなさい。どうしても一人になりたかったの」と言いました。シュンは心から安堵して、「そんなときもあるよ」と許してくれました。そして迎えに行くから居場所はどこだい、と聞きました。
この夜、トモコは夫のシュンと共にベンチに座り、長いこと沼を見つめて、イエス様について語り明かしました。それは2人のかけがえのない時間になりました。
信仰者として生きるトモコには、これからもいろいろな波が押し寄せましょう。すぐに自分を誇っては、打ち砕かれることもあるでしょう。自分の罪深さを悲しんでは、十字架で流された血の意味を繰り返し知ることでしょう。全焼のいけにえのように、聖霊の炎で己を燃やし尽くしてくださいと願っても、肉の体は繰り返し罪の誘惑に晒されて、抗えない自分のみじめさに呆然とすることもあるでしょう。それでも、トモコのうちに宿った御霊は、あまりの麗しき輝きと強さで、トモコを守り続けましょう。
「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5)と言われる通りであるのですから。
神の遣わせたみ使いたちも、トモコを守り続けましょう。時に風となり、花々や木々となり、天の星屑の輝きとなり、いつの時も、み使いたちは私たちを守ってくださっているのですから。
*
‘み使いダニエル’ 終わりに
長きにわたって ‘ダニエル’ の働きを紹介させていただきました。ダニエルは、神様の愛の息吹で造られたような、それは麗しいみ使いでありました。イエス様は、このようなみ使いたちを、万軍として従えているといわれています。そして私たち信仰者も、万軍のみ使いたちに守られた者であると…。
この暗く、陰鬱(いんうつ)な影が至る所にある世にあって、それはどれほど心強いものでしょう。
この ‘み使いダニエル’ は、著者の持病との闘いの中で見た ‘まぼろし’ から生まれました。その ‘まぼろし’ を少しでも留めておきたい、と記し始めたものです。‘まぼろし’ に現れたみ使いたち、その麗しさ、荘厳な語り掛け、熱い愛の感触を忘れたくないと書き始めたものでしたが、どのように筆を尽くしても、あの ‘まぼろし’ の世界を描きだすことは難しいことでした。
絶望的な病の淵にあり、この世においては希望もなく、未来のことを思うだけで底知れぬ暗がりに手を引かれそうな恐ろしさの中で、神様が見せてくださった ‘まぼろし’ が著者を慰めてくれました。そしてまぼろしに導かれるように、聖書の言葉が、体のなかに流れ込んできたのでした。
その後、みことばを杖のようにして立ち上がり、みことばに心癒やされ、病もずいぶん良くなりました。今ではあの頃のようにまぼろしを見ることもほとんどなくなり、まぼろしの世界を懐かしく思うばかりなのです。
‘勇気を出しなさい、わたしは世に勝利している’(ヨハネ16:33)とイエス様が宣言される通りでした。
みことばは、私を導く声色に変わり、そして私を決して離さんとする力強いみ腕となり、私は、その胸に抱かれるように、牧場の暖かな日差しの中で、イエス様という善い牧者のもとで憩うひつじとなりました。
この善き牧者は、貧しき所でお生まれになり、大工の息子として育ち、学もないのにとののしられ、この世では枕する所もなく、死に至っても衣服のほかに盗られるものもありませんでした。しかし、その死の血潮によって私たちを闇の鎖から救い出し、よみがえられて弟子たちに現れ、天に昇られ、今も守ってくださいます。世の初めからこの世におられ、闇に勝利された神様で、主は万軍を率いて今も働いておられます。
著者にまぼろしを見せて励まし、深い病の淵から救い出したことも、神様の力強い御業の現れであったことでしょう。どんな不思議な業もなさる神様の働きに感謝して、長きにわたって書かせていただいた ‘み使いダニエル’ のお話を閉じさせていただきたいと思います。
さとうりょうこ
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。