スピリチュアルなものが好きという日本人は多いと思います。しかし、日本人のスピリチュアルなものは、米国人が思う「宗教」とは違います。日本人の考えるスピリチュアルなものは、日本の長い歴史から生まれた独特の考え方であって、米国人に日本人の宗教観を説明することは容易ではありません。そのことについては、この連載コラムの第6回で書いた通りです。「私はクリスチャンです」「私はイスラム教徒です」「私は仏教徒です」と、ハッキリと自分の信仰について言い切れる日本人は少ないでしょう。
それでも、宗教的な慣習や験担ぎのようなものは、気になるようです。初詣の人混みも毎年恒例。人生の節目に行われる安産祈願やお宮参り、厄払いなどを見ると、日本人と神道の関わりも深いように見えます。しかし、日本人に「あなたは神道信者ですか」と聞いて、「はい」と答える人に私は今まで出会ったことがありません。
ただ、験担ぎのようなものは、日本だけにあるわけではありません。ニューヨークでも、チャイナタウンに行くと、いわゆる風水などから来る開運グッズがたくさん販売されています。また、飲食店の入り口には、金運・財運アップを祈願してか、金色の竜の置物がよく見られます。
また、チャイナタウン以外でも、ニューヨークの中心街マンハッタンでは、「サイキック(psychic)」と書かれた看板をよく見かけます。未来を予言する占いのようなものですが、悩み相談的なことをする人もいるようです。人が何かを決断するとき、目に見えない力(非科学的なもの)に頼るのは、国や人種を問わないというのは、実に興味深いことです。
私はクリスチャンですから、神の存在を信じていますし、非科学的だといわれるようなものも否定はしません。また、霊感的なものが個人の一時的な心理的支えになるのであれば、それはそれでよいとも思っています。心理学でプラセボ効果(偽薬効果)は証明されており、その人にとって一時的な気休めになるのであれば、問題ないでしょう。しかし、これが個人ではなく、団体や集団が組織的に行っているとなれば話は別です。
日本では昨今、旧統一協会と政治家、特に自民党の政治家とのつながりが明らかになり、問題となっています。この話題は米国でも取り上げられており、ワシントン・ポストは、7月12日の記事「How Abe and Japan became vital to Moon’s Unification Church(安倍元首相と日本が旧統一協会にとって欠かせない存在になった理由)」で、旧統一協会と大物政治家の関係を取り上げ、日本はこの世界的な宗教団体の資金の7割を生み出す「金脈」だと報じました。亡くなった安倍晋三元首相の実弟である岸信夫前防衛相も、旧統一協会とは「付き合いもあるし、選挙の際にも手伝ってもらっている」と発言しており、政治家と旧統一協会の関係が日々明らかになっています。
実は私は、今回の事件が起こる前に、安倍元首相が旧統一協会の関連団体にビデオメッセージを寄せたのを見て、両者の関係を知っていました。私にとっては驚きで、その場面のスクリーンショットをツイッターにも投稿していたのですが、当時はフェイクだと思われたのか、あまり反応がありませんでした。
宗教団体の政治への関与は、今に始まったことではありません。公明党と創価学会の関係は周知の通りですが、国民もメディアも長い間、問題にしてこなかったのではないでしょうか。ニューヨーク・タイムズの1999年の記事「A Sect's Political Rise Creates Uneasiness in Japan(日本に不安をもたらす宗教的政治の台頭)」には、「1964年に創価学会によって創設された政党である公明党」と書かれています。つまり、日本は半世紀以上にわたり、宗教団体と政党が一つになっていることを放置してきたことになります。
しかし、これは日本だけの現象ではありません。米国も、政治と宗教を完全に切り離すことはできていません。例えば、大統領選はその最たるものです。組織化された宗教団体は長い間、米国の政治に強力で保守的な影響力を及ぼしてきました。これは否定できません。選挙において特定のNPOや企業、宗教団体の協力を得ることは、候補者にとって票稼ぎに必要なことであり、これ自体は問題ではありません。しかし、コンプライアンス的に問題がある団体と候補者がつながることは、大きなマイナス要素になります。ですから、候補者は徹底的に手を組む相手をリサーチする必要があります。
とはいえ、この政治と宗教の関係に少しずつ変化が出てきたことも事実です。ドナルド・トランプ氏とヒラリー・クリントン氏が争った2016年の米大統領選は、「次期大統領は異端児か、初の女性か」などと世界中のメディアが注目し、皆さんの記憶にもまだ残っていると思います。ワシントン大学政治学部のマーク・A・スミス教授は、著書『Secular Faith(世俗的な信仰)』(2015年)で、米国の政治と宗教の関係について、とても興味深い視点で書かれています。スミス教授の徹底的な研究は、奴隷制から離婚、同性愛、女性の権利に至る一連の問題について、米国で主流だった宗教的伝統の教義が現代の社会規範に適合するように変化してきたことを明確に示しています。
スミス教授は、「宗教によって人々が特定の政策や候補者を支持するか」ではなく、「世論が宗教団体の政治的立場や教義にどのように影響するか」を調査研究しました。スミス教授は、公共政策の変化に合わせ、宗教団体が立場を変えてきたことに注目しています。「社会に新しい価値観が生まれると、宗教指導者は団体の公式の立場をアップデートしなくてはならず、その度に聖書の再解釈という形を繰り返してきた。例えば、同性愛について尋ねられたとき、ローマ教皇はカトリック教会の新しい時代を先導した。教皇が同性愛に対する寛容を表明することは、10年前は考えられなかった」と言っています。
つまり、スミス教授の結論はこうです。どんなに大きな力を持つ宗教指導者であっても、その宗教団体のメンバーをコントロールするのが難しい時代になっていると。なぜなら、メンバーはその宗教団体よりも、より大きな社会で生活をしているからです。
確かに今や、インターネットの発達により、学校や職場で得られる情報、また国内メディアによる情報だけでなく、海外メディアやソーシャルメディアを通して、世界中のさまざまな情報を簡単に入手することができます。それによって、さまざまな文化や考え方を知り、そして違いを知ることになります。世俗的な信仰を持つ現代のクリスチャンたちは、異なる宗教や無神論者ともつながっていく。そして政治的な議論においては、宗教的な観点よりも、社会問題をどう解決していくかという点において、政党や候補者の政策に注目していくことになるということです。スミス教授は、これまでのように「自分の教会の牧師が支持している候補者に投票しよう」と反応する人は減少していくだろうと述べています。
確かにその通りだと思います。例えば、日本のメディアは「米国の福音派が支持するトランプ大統領」というように報道していましたが、私のようにアフリカ系やヒスパニック系の米国人が多い福音派の教会に通うクリスチャンたちは、「福音派=トランプ支持」と捉えられることに不快な思いをしていました。また、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動や銃規制を求めるデモや集会においては、宗教や宗派・教派などの垣根はなく、みんな同じ意見の人が集まり抗議しました。米国では、政治と宗教が少しずつ切り離されていっているのを感じます。
日本も今回の旧統一協会の件を通して、政治と宗教の関係について考えざるを得ない状況に立たされているのだと思います。候補者が、クリスチャンだから、創価学会員だから、という理由で投票する、投票しないというのではなく、どのような政策を掲げているのか、その政策と自分の意見は一致しているか、を考えて一票を投じることが、より健全な民主主義の形ではないでしょうか。
心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ12:2、口語訳)
愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。(1ヨハネ4:1、同)
周囲の意見や集団の雰囲気に流されてしまうのは、弱さや思考停止から来ているのだと私は思います。決断を下す前に、「自分の選択は主の御心にかなうものだろうか」と立ち止まって考える、クリティカルシンキングの必要性をあらためて感じています。
また、異端の問題は、聖書の時代にもありました。パウロは、ガラテヤ人への手紙で「それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである」(1:7、同)と記しています。異端が注目される今だからこそ、私たちクリスチャンは率先してキリストの福音を伝え、日本の人たちを救っていくべきではないかとも感じています。
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