コロナ禍のため音楽の仕事がしばらく開店休業状態となり、56歳からフルタイムの大学生活を送っていることは、この連載コラムの第1回でお話した通りです。久しぶりの学生生活とはいえ、私には若者にはない長年の職業経験や人生経験があります。授業は楽勝であろうと予想していたのですが、見事に裏切られました。入学後すぐに、米国の大学で学位を取得することは、私にとってはかなり困難なことであると自覚させられました。
私の専攻は心理学ですが、学位取得に必要なのは心理学の専門単位だけではないのです。一般教養科目の単位も取得しなくてはなりません。これは、専攻にかかわらず、その大学を卒業するためにすべての学生が取らなければならない科目です。米国で教育を受けた人ならば、昔の教科書を引っ張り出して・・・ということも可能でしょうが、私は日本で教育を受けてきたので、そういうわけにはいきません。米国で全く教育を受けたことのない私にとっては、この一般教養科目が最大のネックとなりました。
まず、授業で使われる英単語が分かりません。たとえば、数学の「関数」「因数」「方程式」などという英単語は、日常会話では出てきません。私の息子は全く英語が分からなかったころ(当時11歳)、「数学と科学の授業だけは記号がメインだから助かった」と言っていましたが、私の場合は全く逆。大学の授業で言われている英単語をまず日本語に変換し、日本で習った過去の授業の記憶を脳の奥から引っ張りだし、日本語で考え、そしてそれをまた英語に直す。曖昧な記憶を思い出しながら、問題を解き、それをまた英語に直して考える。その作業は膨大であり、私の脳内は入学早々パニックを起こしてしまいました。それに、答えを導き出す方法が日本で習った方法とは違うことがあるのです。息子の場合のように、真っ新な脳にインプットするのと、すでにインプットされたものをアップデートするのとでは大違い。長年の記憶や考えを変えるのは、実に難しいということを、身をもって体験しました。
しかし、そこから学んだことがあります。真実を導き出す方法や考え方は一つではないということです。例えば、世界史。同じ科目であっても、日本の高校で使った教科書と、米国の大学で使う教科書とでは視点や内容が違います。起きた出来事は同じなのに、注目する点が違うのです。それは非常に面白いことで、私の探求心は大いに高まりました。特に驚いたのは、米国の教科書は、世界の宗教や近代史の内容が充実していることです。日本の教科書は、近代史も宗教もあまり触れていないため、ある種のカルチャーショックを受けました。
例えば、世界史の授業で私たちは仏教について学びました。その際、仏教の創始者であるブッダこと、ガウタマ・シッダールタの生涯を描いたドキュメンタリー「The life Of the Buddha(ブッダの生涯)」(英BBC製作、2003年)を見て、その後にディスカッションをしました。ドキュメンタリーは、釈迦(シャーキヤ)族の王子としてのブッダにフォーカスしたもので、宗教色はなく、さまざまな学者のインタビューも盛り込まれています。このドキュメンタリーを見たことで、私はより「神とは何か、生きるとは何か」を深く考えさせられました。
また、ディスカッションでは、それぞれの国で信じられている民族宗教についての話も出ました。歴史の浅い米国とは違って、長い歴史のある国々には、それぞれに民族的な信仰があります。インドや中国などのアジアから来た学生の中には、私と同じように家族の信仰と自分の信仰が違う人もいます。私の場合、私自身はクリスチャンですが、日本にいる家族は全員クリスチャンではありません。私は日本生まれの日本育ちですから、日本の仏教、神道、儒教、自然信仰(神話的信仰)が混在した不思議な日本人独特の宗教観も知っています。ですから、若い王子ブッダの苦悩には、私も含め、多くの留学生や米国移民の学生は親近感を覚えました。
ブッダは王子として生まれ、物理的には不自由ない生活をしていました。しかし、政治に興味を持つよりも、「なぜ、人は平等ではないのか」「人間の幸せとは何か」ということを考えました。世の中の矛盾に気付き、苦悩する青年王子の姿に共感する学生は多く、そこには時代や国を問わず、若者が共通して抱く苦悩が見られます。ブッダはイエスが誕生する500年も前に、こうしたことを模索していたわけです。ディスカッションでは、「もしもブッダがイエスと同じ時代に生き、イエスと出会っていたなら、ブッダはイエスの弟子に選ばれていたのではないだろうか」などと想像し、大いに盛り上がりました。そういう自由な発想は、聖書の言葉をより学生たちに身近なものとするように感じました。
これまで世界の歴史の中で、宗教は度々政治と癒着し、権力者によって利用されてきました。もしも、その時代の信仰者が盲目的ではなく、クリティカルシンキング(批判的思考)を持っていたならば、歴史は変わっていたかもしれません。世界史の授業で最もそれを感じたのは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人虐殺でした。現代社会では、世界中の誰もが、恐ろしい歴史的出来事だったと認識しているはずです。しかし、世界史と心理学の教科書によると、ヒトラーはクリスチャンたちを反ユダヤ主義に駆り立て、それに普通の人たちが次々と追従してしまったと書かれていました。ヒトラーの言っていたことは、聖書の教えとは似ても似つかないものでした。しかし、それにもかかわらず、当時のクリスチャンたちは反対することができなかったのです。私たちが今住んでいる時代は、インターネットで簡単に情報を得ることができます。しかしながら、ネット上にあふれている情報が全て正しいとは限りません。私たちは、発言者がどんな著名人であろうと、批判的思考を持つことを恐れてはいけないと思います。それが多様性の時代に生きる私たちのあるべき姿であると考えます。
また、私が通っているナイアック大学は、キリスト教の大学ではありますが、キリスト教を押し付けるような教育はしていません。もちろん、教授たちは皆、クリスチャンですし、バイブルクラスもあります。しかし、だからといって、他の宗教を批判することはありませんし、他の米国の大学と同じように、普通に学位を取得することができます。ですから、海外からの留学生もいますし、キリスト教以外の宗教を信仰している学生もいます。この連載コラムの第3回で、ナイアック大学に併設されているナイアック音楽学校について書きましたが、そこでイスラム教徒の学生にも会いました。バイブルクラスでは、モルモン教徒やユダヤ教徒の学生にも会いました。ディスカッションの時間は、さぞかし熱いバトルになるだろうと思いきや、全くそんなことはありませんでした。むしろお互いの考え方を知る良い機会となり、考え方がよりグローバルになりました。私も彼らとのディスカッションから多くを学び、より深く「神とは何か」を考えるようになりました。
聖書は、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)と、全ての人類が互いに愛し合い、尊重し合い、共存していくように教えています。ですから、私たちがキリストに従うクリスチャンであるならば、異なる宗教や価値観を持つ人たちとも平和を保たなければなりません。オレンジゴスペルでも来日したナンシー・ジャクソン・ジョンソンさんは、5年ほど前から多様性を受け入れるように呼びかける「ジャージー・ショア・ワーシップ」というイベントを主催しています。彼女は、人種や宗教、教派を超えた結束が、今の社会に必要だと訴え続けています。日本も少子化に向かっていますから、外国人労働者や海外からの観光客、留学生なども積極的に受け入れなくてはなりません。習慣の違う海外からの人たちと共存していくために、他宗教や他文化を学ぶことは非常に大切なことだと思います。
多様性の時代が来て、人々が戸惑うシーンは聖書にも幾つか登場します。例えば、西暦49年ごろに開催されたエルサレム会議(使徒行伝15章)はその例であり、その後もユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの論争は長い間続きました。現代社会の中で、日本のクリスチャンたちにも同じような葛藤や論争が起きるかもしれません。しかし、私たちクリスチャンが最優先にしなくてはならないのは、愛です。私たちは、もっと広く学び、大らかな発想を持つべきではないでしょうか。それによって、教会は地域社会に根ざし、どんな人たちも集まりやすい場所になると思います。
また、多様性の時代の中、日本人が他国の人々と共存するために聖書的道徳観を知ることは、非常に大切なことです。聖書を学びたい人が、抵抗なく学びに来ることができるような雰囲気づくりが、教会に必要なのではないかと思います。日本のクリスチャンが多様性を受け入れることは、ゴスペル(福音)を広げることにつながり、それは主の御心であると私は信じます。(続く)
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