昨年12月、元グラビアアイドルで大阪市会議員の佐々木りえ氏が、養子縁組で女児を家族として迎えたことをSNSで報告し、反響を呼びました。一部のネットニュースでも取り上げられ、ネット上には好意的なコメントがたくさん寄せられていました。少しずつではあるけれど、これまで養子縁組にネガティブな印象を持つ傾向にあった日本人の中に、何か変化が起きているような気がしました。
とはいえ、数字を見ると、まだまだ日本の養子縁組の数は欧米諸国と比べものにならないほど低いのが現実です。国連の子どもの権利条約は、「子どもが、人格の全面的かつ調和のとれた発達のために、家庭環境の下で、幸福、愛情および理解のある雰囲気の中で成長すべきであることを認め」と、前文でしっかりうたっているにもかかわらず、日本政府がこの問題に本腰を入れる気配はなく、むしろ逆行しているように見えます。政府は、加速する少子化対策として、今年4月からは不妊治療の保険適用を始め、治療開始時点で43歳未満の女性までを対象としました。残念ながら、これでは養子縁組はこれまで同様に「不妊治療の第2の選択肢」という位置付けから変わることができません。現状を見ると、日本は欧米諸国のように、不妊治療と養子縁組を同時進行に行う方向には進まないように思えます。
私は昨年3月、ニューヨークにあるキリスト教主義のナイアック大学で、心理学に関する研究をする中、「Reconsideration of Ideal Orphan Care in Japan(日本における理想的な孤児ケアの再考)」というレポートを発表しました。今回は、そのレポートを一部抜粋し、なぜ施設養育ではなく、家庭養育が子どもたちに必要なのかをご紹介したいと思います。
まず、施設養育の最大の問題点は、成長過程における心理的・肉体的な影響です。「Unwanted Infants」という論文には、施設で養育された子どもたちを50年にわたり追跡調査した結果が記されています。調査は男性40人(平均年齢57・3歳)、女性41人(同61歳)を対象に、かなり大規模に行われたものです。この論文によると、施設養育を受けた人たちの多くに、未婚、孤独、高い自殺率という結果が出ました。また、特に男性は、鎮痛剤などの薬を多用する傾向にあったとされています。なぜ、そうなってしまうのか。理由は幾つかあります。主な理由としては、「人間関係を築くのが難しい」「生まれてきた理由や生きる意味が分からない」「自分に自信が持てない」などの心理的な障害が挙げられます。
この心理的な障害は、人間が生まれ育っていく過程、つまり発達心理学の分野と関連があります。子どもを養育する上で非常に大切なのは、「アタッチメント(愛着)」とされています。アタッチメントとは、特定の他者との間の緊密な情動的絆のことで、抱っこや、ハグなどのスキンシップも伴うものです。現在は精神医学や心理学の分野だけでなく、保育や看護といった分野でも研究が行われています。そのため、保育科や看護科などで勉強された人はよくご存じのことと思います。
子どもは、乳幼児期に養育者(特に母親)から無条件に受け入れられることによって、愛される経験をし、人格形成の基盤をつくっていきます。子どもが心身ともに健やかに成長するためには、親(養育者)との安定したアタッチメントが必要なのです。アタッチメントは、子どもに安心感を与え、自分や周囲の人への信頼感をもたらします。アタッチメントがしっかりとあった子どもたちは、他人とのコミュニケーションも上手にできますし、優しく温和に育ち、自分や他人を愛することができます。その反対に、アタッチメントが十分ではなかった子どもたちは、他人との距離感が分からなかったり、自分に自信が持てなかったり、不安を抱えたりしてしまう傾向があります。家庭養育では、親と子が一対一で、このアタッチメントの時間を長く持つことができます。しかし施設では、数人の大人で大勢の子どもたちを育てなくてはならないので、不十分になりがちです。また、特定の大人との一対一の信頼関係を持つことはできません。よって、アタッチメント不足が施設養育の最大のデメリットの一つであるといわざるを得ません。
しかしながら、この論文は「施設=悪」と言い切ってはいけないと結論付けています。その理由は、施設を出た後に、誰と出会うか、どんな経験をするかによって、その人の人生が変化するからです。何らかの理由で子どもが施設に預けられたとしても、養子縁組や里親制度によって、アタッチメントの機会を得ることができる可能性があります。あるいは、聖書を学んだり、教会に通ったりすることによって運命が変わった人もいます。学校の教師や仕事先の仲間、上司の愛によって、本来の自分を取り戻すことができた人もいます。
私は10年以上前に「オレンジゴスペル」という活動を始め、「合唱のように子育てはみんなで!」という合言葉を広げてきました。これは、私のニューヨークでの子育てから学んだことです。ニューヨークでは、13歳までは子どもを一人で行動させてはいけないという法律があります。それにより、親同士や近所の人たち、教会の仲間などが自然と協力して、子どもたちを守るのが当たり前になっています。アルバイトにベビーシッターを頼むのも日常的です。日本のように「子どもは親が育てなくてはいけない」というような締め付けは、ニューヨーカーの子育てにはありません。子どもはいろいろな人の手を借りて育てるものだというのが、当たり前なのです。
昨年、弁護士ドットコムニュースで「養子後進国の日本、大半が施設へ ジョブズら養子活躍するアメリカから学ぶヒント」という記事を書かせていただきました。しかし残念ながら、「海外出羽守」(海外の事例を紹介する人を揶揄〔やゆ〕する俗語)と非難され、公開直後はあまり良い反響がありませんでした。批判の多くは「米国と日本の文化は違うのに、比較するのはおかしい」というものでした。確かに文化は違います。米国は移民の国。日本のような単一民族的な国家ではありません。ですから、白人夫婦がアジア系やアフリカ系、ヒスパニック系の子どもを養子として迎えることも多く、それを見ると、明らかに養子だと分かります。こうした点を考えると、養子縁組は米国よりも日本の方がもっと広まってもよいはずなのです。しかし、現実は逆です。私は、日本人の心理的なバイアスにその原因があるのではないかと思っています。
聖書は、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)と、神がすべての人間を愛してやまないことを伝えています。また、「神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ」(使徒17:25~26)とも書かれています。ですからクリスチャンは、この地上にいるすべての人は神に愛されており、もとは一つであると考えています。そのためか、クリスチャンの多い米国は、「子どもたちは、育てられる人が育てればよいではないか」という考えを持つ人が多く、おおらかです。聖書的道徳観が、日本人が持っている認知バイアスを米国人に持たせないのではないでしょうか。
私は、ニューヨークの児童相談所のホームページを初めて見たとき、カルチャーショックを受けました。家庭養育者(養親や里親)を必要としている子どもたちの写真と情報が誰でも見られるように公開されていたからです。さらに当時は、毎週水曜日にこうした子どもたちと対面できる機会も設けられていました。ニューヨークでは、親が必要な子どもたちと、子どもを求める大人たちの距離が非常に近く感じます。クリスチャンの少ない日本では、このようなオープンさは難しいのかもしれません。ですが、子どもたちの幸せを願うならば、養子縁組が当たり前の社会になることを私は祈りたいです。(続く)
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