櫛木理宇(くしき・りう)による同名の長編サスペンス小説を、白石和彌(かずや)監督が完全映画化。阿部サダヲと岡田健史のダブル主演。脇を固めるのは、中山美穂、岩田剛典ら豪華キャスト。本作は「観る人を選ぶ」作品である。直接的なゴア描写はないが、スクリーンの外で何が行われているかが手に取るように分かるタッチで描かれているため、映倫既定のPG12(小学生未満の単独鑑賞非推奨)では絶対に収まりきらない。むしろR18+(18歳未満の鑑賞禁止)であってもおかしくない。しかも映画の内容は、観ている私たちに目を背けることをさせないほどエンタメ性が高く、ミステリ-要素も強いため、一度観始めたら時間を忘れてスクリーンにくぎ付けになること間違いない。
物語は、24人もの青少年を惨殺した罪で収監されている死刑囚・榛村(はいむら)大和(阿部サダヲ)から、大学生として無気力な日々を送っていた筧井(かけい)雅也(岡田健史)の元に一通の手紙が届くところから始まる。手紙には、会って話がしたいと書かれてあった。
榛村とかつて交流があった筧井は、手紙に戸惑いを隠せずにいた。彼の知る榛村はとても気さくで優しい男であり、まさかパン屋を営む裏で多くの青少年を殺害していたとは到底思えなかったからである。しかし事件は事実であり、榛村も自らの犯行を認めていた。悪びれるそぶりも見せず淡々と犯行を自供し、しかも機会があれば同じことをやりたいと語る榛村の姿は、人が持つ底知れない「悪」を筧井に見せつけるものであった。
「今頃になって、どうして僕に?」 そんな思いを抱えながらも、なぜか榛村のことが気になる筧井は、榛村が収監されている刑務所に面会に出向く。するとそこで榛村から驚くべき秘密を聞かされることになる。榛村は、他の罪は認めるが、最後の事件は冤罪であり、犯人が他にいることを証明してほしいと言うのだった。
ここから筧井は榛村に代わって事件を追うことになる。榛村は人を殺すにあたっても、その几帳面さが如実に表れており、ターゲットとする対象の年齢、殺害の仕方に至るまで、すべてにある共通性があった。その観点で見ると、確かに榛村の言う通り、彼が指摘したその事件だけは他の事件とは明らかに異なっていた。そのことに思い至った筧井は、いつしか「榛村の代わり」ではなく、自らの好奇心と探求心でこの事件を追っていくのだった。そして彼が行き着いた先に「見た」ものとは、私たちの想像を絶する「悪しき世界」だったのである。
俗に「人たらし」といわれる人物は社会に多く存在する。それは影響力が強い人、相手の心が手に取るように分かる人、そして異彩を放ちつつ、相手に「あの人のようになりたい」と思わせる魅力を醸し出す人である。
本作の恐ろしいところは、その魅力を自覚している榛村が、安楽椅子探偵よろしく、事件の真相に迫るかに見せかけて、実は相手(この場合は筧井)を操作し、事件とは関係ない筧井に自らの「心の闇=悪」と向き合わせていく展開である。「人たらし」は、魅力にも毒にもなり得るのである。
人は善良そうに見えてもどこかに悪の部分を抱いているものである。そして自身の悪と向き合うとき、その本性(本当の姿、といってもいい)が本人の意思とは関係なく露呈されてしまう。そのことに一番驚くのは本人である。それは言い換えるなら、悪は悪によって見いだされ、知らず知らずに伝染してしまうということである。
ネタバレを避けるため、結末は語らない。しかし、観終わったときに決して爽快感は得られない。なぜなら筧井に起こったことが、映画とは関係ない世界に生きている私たちに絶対起こらないとはいえないからである。また、この危険性に気付いたとしても、周りで同じように悪に伝染された者がいるなら、彼らと接する中でいつの間にか私たちが毒されてしまうことも大いにあり得よう。そういった意味でも、本作は「心して観る」必要がある。同時に、観終わった後に「悪」について語り合える格好の題材だともいえよう。確かに榛村や筧井は架空の人物である。しかし、だからといって私たちの現実にこのような「悪の伝染」が起こらないとは決していえない。
本作のタイトル「死刑にいたる病」は、キルケゴールの『死にいたる病』のオマージュだろう。キルケゴールが語る「病」とは、本当の自分であろうとする自分から目を逸らすことで生じる「絶望」である。それが人を死にいたらしめるというのである。
本作では、文字通りの「死」が筧井に「絶望」を突き付けることになる。そして、その「死」の源泉は榛原であり、その彼は死刑に処せられようとしている。まさに「死刑にいたる病」となる。なかなか奥深い意味を含んだタイトルだといえよう。
聖書の言葉に次のようなものがある。
思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。(1コリント15:33)
悪は伝染する。まん延する。そのことを聖書はしっかりと語っている。だから悪い交友を持つな、と勧めている。良い習慣を台無しにするのは、悪しき習慣、そして「心の闇=悪」なのだから。無防備に悪に近づくなら、とんでもない「パンドラの箱」を開けてしまうかもしれない。それより、真摯(しんし)に自分を見つめる視点を育成し、その中で神に取り扱ってもらう方が幾倍も良い。そんなことを思わされる一作である。
本作は、人の悪を深く考察するのに適している。そういった意味で、心理学やカウンセリングなどに興味のある人は、ぜひご覧になっていただきたい。もちろん単なるエンタメ作品として鑑賞するのもいいだろう。しかし、それでは単なるサイコサスペンスの域を出ないものになってしまうだろう。映画はどうしても、会話で「語られる」ことや、情景などで「示される」ことにより、見方がずいぶんと変わってしまう。根底に流れるテーマを掘り下げ、現実世界に当てはめて考えることで、幾倍にも味わいが深まる作品である。
■ 映画「死刑にいたる病」予告編
◇