博覧強記とはまさにこのことである。本書『「悪」の進化論 ダーウィニズムはいかに悪用されてきたか』は、作家にして神学者の佐藤優氏が、2019年8月21日から23日にかけて、同志社大学京田辺キャンパスで行ったサイエンスコミュニケーター養成副専攻(野口範子・生命医科学部教授)の集中講義を、ほぼ完全収録したものである。まずページ数に驚く。540ページを超える大著である。ちなみに値段は3千円(税抜き)。題名の【「悪」の進化論】という文字が、どちらかというと地味な表紙の右側に黒字で大きく記されている。帯も表紙カラーと同色なので、あまり目立たない。しかしこれらとは対照的に、表紙中央には白字で【同志社大学講義録】と記されている。まずこの小さな文字に目が行くように計算されているのだろう。手に取ってみると、まさに「ずっしり」と重い。ハードカバーであるため、本を手に取り、レジへ持って行くその所作に一苦労したことを今でも覚えている。
本書は「進化論」という題材を取り上げながら、その歴史的背景や進化論が後にどのような展開を見せたのか、そしてこの思想を誰がどう解釈することで、現在のような世界が生み出されてきたのか、を詳(つまび)らかにする一冊である。例えるなら、アカデミズムの幕の内弁当(豪華版)のような体裁である。
授業は参考文献を皆で読み、それに対して講師の佐藤氏が解説を加え、時には受講生に質問しながら進めていくというスタイルである。これを7つのセクションに分け、収録している。講義内容の長短に差があるため、極端に短い講義(第6講)もあれば、他の倍以上ある講義(第5講)もある。つまり時系列に授業を収録してはいるものの、その中身は佐藤氏の狙いに沿って取捨選択されている。
受講生は各学部から選抜された少数。しかもある程度学術レベルの高い人が集っていることが、冒頭から示されている。「序 講義を始める前に」では、日本の「高等教育」が世界から見てどのレベルにあるのか、また日本の教育システムの特異性とは何なのか、がはっきりと語られている。こういった「学的トリビア」が本書には満載である。加えて、佐藤氏が紹介する参考文献と参考メディアが本当に多岐にわたっていることに驚かされる。本書で紹介されている意外な(?)資料を列挙しよう。ちなみにこれらは私が本書を通して知り、購入あるいは鑑賞したものでもある。
- 斎藤環著『オープンダイアローグがひらく精神医療』(日本評論社)
- ティモシー・ライバック著『ヒトラーの秘密図書館』(文藝春秋)
- 村田沙耶香著『コンビニ人間』(文藝春秋)
- リチャード・ドーキンス著『神は妄想である 宗教との決別』(早川書房)
- アリスター・マクグラス著『神は妄想か? 無神論原理主義とドーキンスによる神の否定』(教文館)
- 菊澤研宗著『組織の不条理 日本軍の失敗に学ぶ』(中央公論新社)
- 柚木麻子著『伊藤くん A to E』(幻冬舎)
- 映画「陰陽師」(滝田洋二郎監督)
- 映画「マルクス・エンゲルス」(ラウル・ペック監督)
いかがだろうか。およそ進化論の是非を語る講義に用いられるものとは思えない資料が満載である。しかし、これらが佐藤氏の手にかかると一筋の縄を結わえるように、しっかりと連関し、そして副題にもなっている「ダーウィニズムはいかに悪用されてきたか」にしっかりと着地していくから不思議である。
これほどの分量の講義であるため、「で、進化論はどうなの?」とクリスチャン(特に福音派)はじれったくなるかもしれない。その結論は456ページでこう語られている。
しかし、進化に関しては、科学の大前提である「追試」などができない以上、こういう解釈的な言説についてはどちらが正しいか、決着がつかない。
これは、「神など人間が生み出した妄想にすぎない」と語るリチャード・ドーキンスと、そんな彼の「非科学的な姿勢」を糾弾する元生物学者にして神学者のアリスター・マクグラスとの論争に関する佐藤氏の言葉である。これは私たちが押さえておくべき大切な点のように思う。キリスト教保守(福音派)は、進化論を決して看過し得ない。否、正確に言うなら「看過したくない」。しかし、それが高じて「創造論の科学的正当性」を提唱しようとしたり、「進化論の科学的矛盾」をあげつらう誘惑に駆られたりすることがある。しかし、この佐藤氏の言葉は、そうした考え方に対するカウンターパンチとも読み解くことができる。
「進化論」がそもそもどのような歴史的背景から生まれたのか。そしてこれが「社会進化思想」として肥大化していくにつれ、どのような弊害を生み出したか。これらを詳らかにすることはできる。しかし「進化論」を「科学的に」論破することはできない。また、例えば創造科学のように「論破したつもり」になることはできても、それを一般化するには無理が生じてしまう。
その理由を佐藤氏はこう語る。
これは典型的な神学の考え方ではある。結論をまず決めておいて、そこへの道筋をどのように付けていくかと、いわば逆算的にロジックを組み立てていく。そのプロセスにおいて、相手から反論をされても本質的な影響は受けない。それが神学者の議論の特徴ではある。(中略)でも、科学者はそれを真似したらダメだよね。「最初に結論ありき」で、議論を拒否していくのではなく、フラットな、開かれた精神で議論をしていき、その中で結論を見いだしていくというのが近代科学のモデルだ。(459ページ)
実はこの結論は、図らずも私の「進化論」に対する向き合い方と似ている。私は「創造論」が好きだ。そして「進化論」が嫌いだ。そんな「好き・嫌い」でいいのか、と問われることがある。しかし、それ以上のことを科学者でもない私が「科学的」に判断することはできない。そうであるなら、どちらの世界観の方が、私が生きる上において有用かと考える方がいい。そういう判断はいかがなものか?と心の中で逡巡(しゅんじゅん)していたときがあった。だが、本書を読み、あらためてこの考え方にこそ「神学的」な価値観が宿っていることを確認することができた。そういった意味で、私も佐藤氏から「集中講義」を受けたことになるだろう。
本書は、大学生を対象としたアカデミズムの幕の内弁当(豪華版)である。しかし、それは単なる「頭の体操」ではない。とても抽象的な議論を交わし、形而上学的な理念の応酬がなされるが、その帰結は驚くほど実践的・実学的である。
秋の夜長、手にずっしりとくる500ページを超えるハードカバーを丹念に読み進める「読書の醍醐味(だいごみ)」を味わってみてはいかがだろうか。あ、もちろん聖書を読んだ後に、ではあるが・・・(笑)
■ 佐藤優著『「悪」の進化論 ダーウィニズムはいかに悪用されてきたか』(集英社インターナショナル、2021年6月)
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