まず、タイトルにだまされてはならない。「悪魔の―」となっているが、中身は至って実践的な大学生向け指南書である。しかも「神学」という概念をここまで敷衍(ふえん)して実学とリンクさせている書物は近年お目にかかったことがない。副題の「一千万稼ぐ大人」という文言も刺激的である。
本書は、同志社大学神学部の学部生向けに佐藤氏が特別講義を行ったその記録集である。たった4回の授業であるが、中身はとても濃くて、年代暗記問題から数学、そして英語の知識まで幅広く学生たちを刺激している。
「どうして神学講義なのにこんなことを?」と思う方もおられるだろう。聖書の中身とかキリスト教の本質などについて議論したり講義するというなら、いかにも「神学部」となるが、本書に登場するトピックスは、経済であったり外交問題であったり、映画や小説ネタ、さらには就活指導まで多岐に渡っている。そして、これらは全て「一千万稼ぐ大人」となるための具体的な方策に裏打ちされているのである。
佐藤氏の著作は、今まで正直好きになれなかった。どうも「上から目線」を感じてしまうからだ。「このくらいのことは知っていないとダメだ」と率直な語り口に対して、もう少し温厚な物言いはないだろうか、と思わされたことがしばしばであった。しかし、本書はこういった疑念を打ち払うのに最適であった。
神学、宗教、というと、どうも実社会から乖離(かいり)したイメージが付きまとう。しかし、佐藤氏は本書の冒頭で「社会の実践の場で『役立つ。そして稼げる』」知識と教養の要諦として、神学を掲げている。これに、私は諸手を挙げて賛成である。
例えば佐藤氏は、「聖霊」とは平たく言えば「コミュニケーション能力」の向上と捉えることができる、と説明する。考えてみれば私たちキリスト者は、神の霊としての聖霊を求め、それに導かれて歩むことを願っている。しかし、ではその聖霊が具体的にどんな影響を私たちの実生活に及ぼすのかについては、ほとんど語られることはない。
似て非なるものとして、「人付き合いがうまくなる方法」をアピールする自己啓発的な発想が挙げられる。しかし、これは本末転倒である。神学的世界観がしっかり備わってこそ、聖霊の働きを「コミュニケーション」と表現できるのであって、ケーキのホイップみたいな上澄みをすくい取る発想とは全く異なっているのだ。
こう考えると「一千万稼ぐ大人」というのも、意味合いとしては全く逆であることに気付かされる。これは金もうけの指南ではなく、キリスト者としてこの社会の動向を知り、曖昧模糊(もこ)とした現代を立派に生き抜くために神学(神の存在を受け入れた世界を説明すること)が必要となると訴えているのだ。
その神学をしっかりとつかむなら、その結果として年収1千万の生活を送ることができる。そういう逆説的な意味合いがそこには含まれている。この順番は大切である。目的が手段となることはできないのだから。
本書の後半にさしかかると、佐藤氏の口調もさらにヒートアップしていく。そして、取り上げるトピックスがさらに多岐に渡り、それでいてさまざまな状況説明を終えると、たちどころに聖書の言葉を引用して解説が進む。特に白眉なのは、第2外国語としてロシア語を習得するまでのご自身の体験である。ここまでしたのか(というか、させられたのか)と思うと同時に、世界的スタンダードはここまでのことが要求されるのか、とあらためて気付かされる。
4章になると、話はいきなりプライベートなことに分け入っていく。その導入は、遠藤周作の『沈黙』。そしてM・スコセッシ監督の映画である。この時のロドリゴの決断を、佐藤氏は自身の「あの刑事事件」と重ねて語り出す。このあたりから、真に神学が人格の形成に、そして人生の選択に多大な影響を与えていることを示してくれる。
話はさらにさかのぼり、佐藤氏のお母様の若かりし日が描かれる。ここは涙なくして読めないところだが、本質はそのような感傷的な部分ではない。この親子の底流に息づいているのは「日本人としてキリスト教を咀嚼(そしゃく)する」姿である。言い換えるなら、その民族、国家に生まれた者として、神学を徹底的に実学の種として受け止めることである。
その一例として、佐藤氏はチェコの神学者フロマートカを取り上げて説明する。彼はチェコに生まれたから、チェコの現実と向き合う中で神学者として生きた。同じ神学的方向性を、佐藤氏は日本という国で実践することにした。そのダイナミズムは神学を通して生み出された。そのことが自身の生き様を通して語られ、講義は終えられている。彼は最後に「生きている神学に、私は関心がある」と語っている。
読み進めていく中で、いつしか自分の信仰が問われていることに気付かされた。私もクリスチャントゥデイにいろんな投稿をしているが、時々「どうしてこんな映画や本を取り上げるのですか?」という質問を投げ掛けられることがある。それはもしかしたら一般的な反応なのかもしれない。一見、キリスト教とは関係なさそうな、そしてそれを強引に引っ付けて語っているように思えるからである。
しかし「神学」とは、ただ聖書を読むためだけの知識の集積ではない。また、神について欧州や米国の文献を丸呑みして知識をひけらかすことでもない。極論するなら、私たちが置かれているこの時代、この国、この地域に通用する考え方、世界観、思考の筋を見いだすことに他ならない。それができないなら、その神学は単なる机上の空論となってしまう。
4月。また新たな年度がスタートした。桜の花がそれを私たちに印象付けてくれる。しかし、いつしかその新鮮さも失われていく。そして、夏を迎え、秋を過ぎる頃には、春の出来事を遠い昔のように思ってしまう。そんな毎日を送って4年がたつと、学生たちは社会へ出て行く。
何の装備もしないまま、社会に出て行くだけでは、いつしかその生き方に疲弊してしまう。しかし、本書はそうならないために、学生という猶予期間にこそ、先を見越した歩みをすべきだと訴えている。4章立ての講義は、今年大学生になった新1年生にこそ最も読んでもらいたい内容である。また、今までの歩みを払拭(ふっしょく)し一念発起したいと願う者にこそ紹介したい講義でもある。
私もこのような講義ができる「生きた標本」的神学者になりたいものだ。
佐藤優著『悪魔の勉強術 年収一千万稼ぐ大人になるために』(2017年3月、文春文庫)
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