「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(1コリント1:25)
2人の男が牧場のそばを通りかかりました。牧場では、牛たちが草をはみ、小鳥たちが舞っています。それを見た一人の男が、もう一人の男に勝ち誇ったように言います。
「お前はいつも、自然も動植物もすべて神が造ったと言うけれど、もしそうなら神は少し知恵が足りなかったと思うネ。例えばだ、今目の前で牛が草を食べ、小鳥たちが餌をついばんでいる。当然のことだが、牛の方がたくさん食べ物を必要としている。もし私が神なら、牛に翼を与えて自由にどこへでも行って思う存分草を食べさせてやる。そして、少しの餌しか必要としない鳥は空を飛ぶ必要はない。どうだ!この方がずーっと合理的だと思わないかい」
彼が得意気に空を向いて高笑いをしているときに、鳥が彼の顔にふんをひっかけて飛んで行ってしまいました。それを見たもう一人の男が言いました。
「空を飛んでいるのが牛でなくて良かったね。やっぱり神様は賢い方だよ」
私たちも時々この男のような愚かさに陥ることがあります。聖書を通して神は、私たちが歩むべき道を示してくださっているのに「いや自分の判断の方が賢い」と言って神の知恵を無視して、自分の知恵で物事を進めてしまうことがあります。神の言葉は一見愚かに見えても、人の知恵をはるかに凌駕(りょうが)しています。
第二次世界大戦の時、欧州ではナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺が行われていました。そんな中で、オランダ人のコーリー・テン・ブームの家族はユダヤ人を家にかくまっていました。しかしナチスに発見され、コーリーの家族も強制収容所に送られます。
結果的に家族は、そこで想像を絶する恐怖を経験し亡くなります。コーリーだけは奇跡的に生き延びて終戦を迎えますが、コーリーはその収容所の中で神の言葉に従うことの賢さを体験させられます。詳しいことは彼女の著書『わたしの隠れ場』の中に書かれていますが、その中の一つを紹介します。
収容所に入るとき、すべての所有物は没収されます。全員列に並ばされ、着物を脱いで裸にされ、所持品検査を受けるのです。コーリーはどうしても中に持って入りたいものがありました。それは聖書でした。聖書だけは取り上げられたくなかったのです。
その時、急にトイレに行きたくなったので警護官に伝えると、その人はシャワー室の方を指しました。急いでシャワー室に向かうと、突然神が彼女にささやかれます。「早く毛糸の下着を脱いでその中に聖書を包みなさい」
彼女は言われるままにして再び列に並び、髪を切られ、シャワーを浴びてボロボロの服を着せられます。その時、先ほど隠した下着と聖書を急いで服の下に入れます。しかし、それはひと目で分かるほど盛り上がっています。コーリーが心の中で祈ると、神が守ってくださるという確信と平安がやってきました。
彼女は何人もの係官の前を通り過ぎますが、誰も気が付かないようです。コーリーのすぐ前にいた女性は服の下に毛糸のチョッキを隠していましたが、すぐに見つかり取り上げられました。
彼女は心の中で神に感謝しましたが、その喜びはすぐに恐れに変わります。部屋を出た所で囚人たちはもう一度念入りなボディーチェックを受けています。女性の係官が囚人一人一人の体をなでて確認しています。
コーリーは再び心の中で祈ります。すると再び平安に包まれます。そして不思議なことが起こりました。コーリーの前の囚人まで入念なボディーチェックをしていた係官は、まるでコーリーの姿を見なかったかのように彼女をスキップして、後ろにいた囚人に対してまた厳しくチェックを続けたのです。
こうして神の奇跡的な守りによって、彼女は大切な聖書を収容所内に持ち込むことができました。コーリーはこの聖書の言葉によって、つらい収容所生活を耐え抜くことができたのです。この後も、何度も奇跡的な神の守りを体験します。
コーリー・テン・ブームの人生は、神の言葉、神の知恵に導かれ従って歩む人生の素晴らしさ、豊かさを私たちに教えてくれます。
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