「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける」(エレミヤ29:12、13)
日本と米国の農家の人の交流会があり、米国の農家の人が日本の農家にホームステイをしました。米国の人が、ホームステイした家の主人に聞きます。
「あなたの農地の広さはどれくらいですか」。すると主人は彼を外に連れ出して説明します。「目の前に川があるでしょう。そして、川上と川下にそれぞれ橋が見えるでしょう。この2つの橋の間にある田畑が私の農地です」
少し得意気に答えました。そして、主人は米国の人に聞きます。「あなたはどれくらいの農地をお持ちですか」。米国の農家の人が言います。「朝、家の前からトラックで出発すると、お昼を過ぎてもまだ自分の農地の中を走っています」
それを聞いた主人はびっくりしたように言います。「それは大変ですねー!私も昔はそんな車に乗っていました」。2人の会話は全然噛み合っていません。人は新しい情報に触れたとき、自分が持っている情報に基づいて理解しようとします。
イエス・キリストは「メシヤ(救い主)」として来られたとき、人々に自分が何者であるかをハッキリ示されました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)
「わたしを見た人は父を見たのです」(ヨハネ14:9)
「わたしと父とは一つ(同一の本質)です」(ヨハネ10:30)
しかし、当時の人々の反応はどうであったのでしょうか。
「そのためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが…神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである」(ヨハネ5:18)
彼らはなぜこのような反応をしたのでしょうか。それは、自分たちの持っている「メシヤ」理解と、目の前におられるイエス・キリストの言動が一致しなかったからです。つまり自分たちの持っている情報こそ正しい、真実だと思い込んでしまったからです。
ここで自分を「神である」と宣言する者について、いつでも3つの可能性があることを確認しておきます。
1. うそをついている。詐欺師、ペテン師。
2. 妄想を抱いている。精神異常者、誇大妄想家。
3. 真実を話している。
これをイエス・キリストに当てはめてみると、イエス・キリストの言葉や行いの中にうそや妄想を見ることはできません。逆に、全知の神であるからこそ語れる知恵に満ちた言葉と、全能にして愛の神であるからこそできる行いばかりです。
昔、米国にルー・ウォーレス(1827〜1905)という人物がいました。作家であり弁護士であり、ニューメキシコ州の知事を務めた人物です。彼はキリスト教を嫌い『キリスト教撲滅論』という本を書こうと思い、友人の不可知論者ロバート・インガーソルと組んで研究、調査を始めました。米国や欧州の図書館を回って資料を集め、1章を書き終え、次にイスラエルに行き、歴史に関する研究、調査をしました。結論から言うと、彼の本は出版されませんでした。なぜなら研究、調査の途中で、彼がクリスチャンになったからです。
ルー・ウォーレスに何が起こったのでしょうか。特に2つのことが彼に大きな影響を与えました。一つは、キリストが十字架の上の苦しみの中で祈られた言葉でした。
「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」
ルー・ウォーレスは、自分に向かって語られているように感じたのです。もう一つは、キリストの復活と弟子たちの変化です。あの臆病で弱く、キリストを一度は裏切った弟子たちが、一瞬にして恐れを知らない殉教者に変わったことです。ルー・ウォーレスはその時のことをこう言っています。
「圧倒されるほどの真実の前に、否定することができなくなった」。そして、彼は自分が撲滅しようとしたイエス・キリストの前にひざまずき、叫びました。
「わが主よ、わが救い主よ」
ルー・ウォーレスは別の本を書きました。後に映画にもなりました不朽の名作『ベン・ハー』という小説です。物語は、イエス・キリストと同時代に生きたベン・ハーという人物が波乱万丈の生涯を経てキリストに出会い、その十字架上の崇高な姿を見上げて心打たれ、キリストを信じるというお話です。
神は言われます。「もしあなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」
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