写真は「動かぬ」証拠として古今東西を問わず、あらゆる場面で用いられている。人がいくら言葉巧みに論を展開し、策を弄したとしても、「百聞は一見に如(し)かず」のことわざのように、一枚の写真は「動かない」が、人の心を、そして現実を「突き動かし」てきた。
そのことを本作「MINAMATA―ミナマタ―」は静かに、そして堂々と訴える。上映時間の115分は、ラスト10分のためにあったと言っても過言ではない。それくらい本作のラストで示される主人公が撮影した写真は、観る者を「突き動かす」マグマの圧のようなものを感じさせる。
題材は、日本人なら誰でも知っている日本四大公害の一つ、熊本県水俣市の水俣病。主演は「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのジョニー・デップ。だが、そのハンサムガイの風貌は本作にはない。特殊メイクをしていることもあるだろうが、「ジョニー・デップらしさ」を完全に封印して、主人公のウィリアム・ユージン・スミスになりきっている。
スミスはかつて、米ライフ誌の花形カメラマンとして一世を風靡(ふうび)した。しかし、1971年当時の彼はその面影もなく、妻や子どもたちからも疎まれ、完全に「やもめ暮らし」の状態だった。しかも借金も抱えているようで、ライフ誌の編集長に厚かましい態度で金を無心するほどに落ちぶれてしまっていた。
そんな彼に転機が訪れる。日本からカメラマンの男性と通訳の女性が訪ねてきて、「ぜひ水俣市に来て、そこで起きていることをカメラに収めてほしい」と訴えたのである。最初はまったく取り合う気のなかったスミスだが、通訳の女性アイリーンが置いていった写真を目にし、その思いが変わる。彼女が手渡した写真の数々は、水俣市で実際に病に陥った市井の人々の現状が赤裸々に切り取られていたのであった。
最終的に編集長の承諾を取りつけたスミスは、アイリーンと共に水俣市に向かう。そして、そこで彼の人生観をまったく変えてしまう体験をし、水俣病の現状を告発する写真を世界に発信することになるのだった――。
本作の特徴を挙げるなら、水俣病を真正面から取り上げた作品であるのに、その監督と主役を日本人ではなく、米国人たちが担っていることである。監督のアンドリュー・レヴィタスはニューヨーク生まれ、そして主演のジョニー・デップはケンタッキー州生まれである。しかし、彼らには共通の問題意識があった。それは世界各地で頻発する工業汚染から自然を守るべきだとする環境問題への意識の高さである。それは本作のエンドロールで、水俣市と同じような境遇にあった(また、あり続けている)世界の各都市の様子が映し出されることからも分かる。そういった意味で、本作は日本の水俣病を描いているようで、実はグローバルに拡大している環境問題に警告を発する一作となっている。
もう一つ特筆すべき点は、本作が水俣市を舞台としているにもかかわらず、地元有志による上映会を水俣市が後援しなかったことである。一方で熊本県は後援を快諾している。朝日新聞によると、水俣市は「映画が史実に即しているかや制作者の意図が不明で、被害者への差別・偏見の解消に資するか判断できない」と説明しているが、真偽のほどは定かでない。ちなみに撮影は、欧州のセルビアとモンテネグロで行われ、日本人のエキストラ250人を招集するという大規模なものであったらしい。水俣市で追加撮影が行われたかどうかは公表されていない。このあたりの情報からも、本作と水俣市の微妙な距離感をつかむことはできよう。
しかし、それくらい水俣病はいまだに大きな影響をこの街に与えているということであろう。訴訟の対象となった会社チッソに勤めていた者も多く、この会社によって人々が養われていたということも関係しているのかもしれない。劇中では、そのあたりの矛盾や葛藤も踏み込んで描かれている。
本作を観終わって、次の聖書の言葉が浮かんできた。
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這(は)うすべてのものを支配するようにしよう。」(創世記1:26)
つい前世紀までこの言葉は、人間は「世界の覇者」であり、「生き物の頂点に立つことを神によって許された唯一の存在だ」という解釈が王道だった。しかし、地球温暖化などの環境問題が姦(かしま)しく議論される中、最後の「支配せよ」という部分を、「思うままに自然を利用し、消費してよい」という意味ではなく、「この世界を育み、守る使命が与えられている」と解釈する意見が主流になってきている。いまだに地球温暖化はないとか、フェイクだと訴える者は後を絶たない。しかし、本作のラストで示されるスミスが撮影した写真は、そのような意見を蹴散らすに余りあるほどのものである。そこに描き出されているのは、尊厳に満ちた「人間」の姿であり、どのような外的要因によっても奪い去られることない「神の像(かたち)=イマゴデイ」を内包した人間の姿である。
冒頭でも述べた通り、一枚の写真は「動かない」が、人の心を、そして現実を「突き動かし」てきた。動的な世界の営みの、その一瞬を切り取る「静止画像」であるにもかかわらず、私たちがこれに向き合うとき、内側から動的な何かがこみ上げてくる。それは聖書の言葉に感動し、動かぬ文字として記された言葉の中から、躍動感に満ちた「人としての根源=神の像」が浮かび上がってくるのと似ている。本作のラスト、私たちはその一枚の写真の中に、変わらぬ「神の像」を見ることができる。たとえ外見は奇形し、満足に言葉を発することができなかったとしても、その人の中に宿る「神の像」は決して変わることがない。むしろ何万語を費やして語るよりも、その一枚を示すことの方が、より鮮明に「神の像」を持った人間の姿、その尊厳を示すことができるのだろう。
秋が深まる今日この頃。少し重たい作品であることを承知で、しかし変わらない人の尊厳ある姿と出会うために、劇場に足を運んでみてはいかがだろうか。
9月23日(木・祝)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開。
■ 映画「MINAMATA―ミナマタ―」予告編
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