ムロツヨシ主演、しかも演じるのは牧師、そして「父娘モノ」ときたら観ないわけにはいかない。本作「マイ・ダディ」は、映像クリエイター支援プログラム「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM」で2016年に準グランプリを受賞した金井純一監督の最新作でもある。最近このプログラムから多くの作品が世に出ている。現在公開中の作品では「先生、私の隣に座っていただけませんか?」(18年準グランプリ)があり、今年2月には「哀愁しんでれら」(16年グランプリ)が公開された。脚本の面白さ、そして新進気鋭の若手監督の登竜門として次第に認知されてきているようである。
本作もそういった系譜の作品として観るなら、確かに面白いアイデアに満ちた人情コメディーであるといえよう。だが、少々難ある脚本に興ざめしてしまう人もいるかもしれない。ネタバレになるので詳しくは書けないが、「そういうことね」とあっさり流して観ないと、ラストの感動の雑音になってしまうだろう。
主人公・御堂一男(ムロツヨシ)は本業が牧師。しかし牧師だけでは食べていけず、近くのガソリンスタンドでバイトをしている。彼には娘が一人おり、名前は「ひかり」。彼女が生まれたとき、喜びのあまり赤ちゃんの脚に「ひかり」と書いてしまうくらいの子煩悩パパだったという。妻は8年前に他界。それ以来、父娘はいつも一緒だった。
ある年のクリスマス、礼拝後にひかりが倒れてしまう。最初は軽い貧血かと思ったが、検査の結果、白血病だと判明。何とか一命を取り留めたひかりだったが、再び倒れてしまうことで、骨髄移植しか治療の方法がないと告げられる。親が一番ドナーとして適している可能性があるため、一男は検査を受けるが結果的に不適合。しかしそれ以上に彼を打ちのめしたのは、医師の何気ない一言だった。それは、彼が今まで信じてきたものすべてを打ち壊すほどの衝撃的な内容であり、同時に誰にも知られてはいけない秘密だった――。ここから先は実際に映画を観ていただきたい。
本作は「宗教映画」と呼ぶにはあまりにも身近で、かといって単なる「人情モノ」と言うには逆に宗教感にあふれ過ぎている。悪く言えば「どっちつかず」だが、良く言えば見事に「日本におけるキリスト教界」の在り方を活写しているといえよう。
「一人娘の治療のために奔走する父親」というと、古今東西さまざまな映画があり、そのどれもが感動的な仕上がりとなっている。しかし本作が従来の「病気モノ」と異なるのは、主人公の一男が頑張れば頑張るほど、必死になっている彼自身がその行動の意義を見失っていくところである。
一男は牧師である。「師」と名が付く職にある者は、一昔前までは「聖職者」といわれてきた。だから彼はその聖職者ぶりをいかんなく発揮して、娘のために奔走する父親を「演じる」。「そうあらねばならない」「そのように世間からは見られるはずだ」というしがらみにいつしかとらわれてしまった一男は、目的達成(娘のドナーを見つけること)のために手段を選ばなくなってしまう。ついには他人に包丁を突き付けることもいとわなくなるのである。
その必死さと、その先に彼を待ち受けているであろう目的の消失。その間で格闘し、葛藤する主人公の姿は、滑稽でもあるが観る者の涙を誘う。私が牧師だから、余計にそう思うのかもしれない。「牧師として、父親として、こうあらねばならない」という枠にはめられていく一男の姿に、私は新約聖書に登場するイエス・キリストの父ヨセフを連想してしまった。
クリスマスでよく語られるストーリーの中に、私は以前からどうしても看過し得ない「ヨセフの悲哀」を感じていた。それは、主の使いから夢の中でこう告げられる箇所である。
ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:20〜21)
一般的には「おお!マリアが妊娠したのは、聖霊によってなのか。そうか、いよいよメシアがお生まれになるのか!」と、彼は信仰でこの出来事を受け止め、次の展開(イエス誕生)に続いていく。しかし、現実にこんなことがあったら(歴史の不可逆性とか、永遠が時間に突入したとか、そういった神学論議を脇に置いておくとしたら)、男性としては絶望するのではないだろうか。身に覚えがないのに妻が身重になるというだけでも信じられないのに、「生まれてくる子は聖霊による」=「お前の子ではない」と告げられるのだから。つまり、自分はイエス・キリストの誕生にまったく関与していないことになってしまう。この辺りの葛藤は、映画「マリア」で丁寧に(しかもきれいに)描かれている。だが実際は、心の中は大嵐、超大型台風が吹き荒れていることだろう。
少々意地悪な見方をするなら、イエス・キリスト誕生の影の立役者は、間違いなくヨセフである。彼が唯々諾々とマリアの話を受け止め、夢で告げる主の使いの話を丸のみにしたからこそ、世界の救い主はこの地に生まれることができたのだから。
本作は、そんなヨセフの姿をほうふつとさせる現代版物語である。病の娘のために愛情深い父親が奔走する様は、昔からある父娘物語の典型である。予想通りの展開だからこそ、私たちの涙腺を刺激することになる。しかし、その父親が遭遇した自分と家族に関する「事実」は、神の愛を説いている「牧師」だからこそ受け止めなければならなかった。しかしその「ねばならない」に縛られていくことで、いつしか愛から逸脱していく様は、何とアイロニカルに満ちた展開であろうか。
しかし、ご安心いただきたい。最後のクライマックスで、一男はこれらすべてを理解して「父親」に戻ることになる。まさにマタイの福音書で「衝撃の事実」を告げられた後のヨセフのように。
ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。(マタイ1:24〜25)
さわやかな感動と共に、クリスチャンならではの「深読み」も十分堪能できる、そんな一作である。
9月23日(木・祝)全国ロードショー。イオンエンターテイメント配給。
■ 映画「マイ・ダディ」予告編
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