第93回アカデミー賞は、コロナ禍での開催ということで趣向を凝らした演出が話題となった。残念ながら視聴率を上げることはできなかったようだが、それなりの話題を振りまいたイベントとなり、日本の映画ファンの注目も高かったようだ。ハリウッド大作が乏しく、どちらかというと小粒なミニシアター系作品がノミネートされた今回のアカデミー賞にあって、近年まれに見る「特大サプライズ」が起こった。それは、昨年大腸がんで世を去った「ブラック・パンサー」ことチャドウィック・ボーズマンが主演男優賞とならず、「羊たちの沈黙」のアンソニー・ホプキンスが、83歳という史上最高齢で主演男優賞を受賞したことである。すでに「名優」の名をほしいままにしていたホプキンスだが、今回の受賞は予想外だったようで、本人は受賞発表時、英国の自宅で睡眠中だったというのだから驚きである。
そんな彼の演技がさえわたる人間ドラマ、それが「ファーザー」である。しかしその内容は、華々しい映画賞とは対照的に、とても地味で暗い作品である。認知症を発症した父親(ホプキンス)と、彼を見守る娘(オリビア・コールマン)の日常を描く人間ドラマである。今までも映画やドラマで認知症が取り上げられることはあったが、本作はこの認知症を父親目線で主観的に描くことで、観客にこの症状を「疑似体験」させる仕掛けが施されている。
例えば、父親が娘と会話している。そして隣の部屋へ行くと見知らぬ男性が椅子に座ってくつろいでいる。驚いた父親は「誰だお前は!私の家で何してる!」と声を荒げる。すると男性は「え?お義父さん、私ですよ」と、すっとんきょうな声を上げる。しかしまったく面識のない男性からなれなれしく話し掛けられたことで父親はさらに激高し、「出て行け!」と言い放つ。するとそこに娘が飛び込んでくる。しかしその風貌は、先ほど話していた女性とは明らかに異なる。彼女は「一体どうしたのお父さん?」と優しく語り掛ける。しかし彼にしてみると、今度は「この見知らぬ女性は誰なんだ?」となる。
こんな展開が開始から40、50分続く。そして観ている私たちも、一体どちらの女性が本当にこの父親の娘なのか、また「彼女の夫」として時々姿を現す男性は本当は誰なのか、そんな疑問が頭の中を駆け巡ることになる。そして気が付く。「ああ、これは父親の脳内記憶の混濁をそのまま映像化しているのだ」と。
冒頭からの約30分間、私は鑑賞しながらホラー映画を観ているときのような恐怖を感じた。それは「誰も信じられない」という状況の寄る辺のなさである。名前を尋ねると皆が不思議な顔をするし、会話も成り立たない。自分のことを告げても「いや、そうじゃない。あなたは今、○○をしていましたよ」と訂正される。やることなすことすべてにそんな感じで対応されるとしたら、最後には自分という存在を信用することができなくなってしまう。
これに類する感覚にとらわれたのは、学生時代に「ジェイコブス・ラダー」という作品を観たときである。これはサスペンスホラーという触れ込みで公開されたが、実はラストに大きなどんでん返しがある。そしてすべてが明らかになったとき、表現のしようがないほどの虚無感に襲われるというカルト作である(ちなみに監督は「危険な情事」のエイドリアン・ライン)。
そんなホラーな展開がほぼ全編を占める本作「ファーザー」だが、ラスト15分でカメラは父親の主観から離れ、客観的に彼の様子を映し出すことになる。そこで描かれる父親の「真実の姿」とは――。これはぜひ劇場で直接確かめてもらいたい。
観終わって、次の聖書の御言葉が浮かんできた。
「老人は夢を見、青年は幻を見る」(旧約聖書・ヨエル2:28b)
本作の父親は、激しやすく落ち込みやすい人物である。そして、どこから脳内の主観的世界へ入り込むのか、現実と主観との切れ目がほとんど分からない。彼は迷宮に入り込む前、必ずその前提として「自分が願っていることが間もなく実現する」という期待感を抱いている。しかし、そこに邪魔な記憶のノイズが入り込んだり、(おそらく現実であろう)実際の状況が彼の願いを邪魔したりしてしまう。その繰り返しである。しかし言い換えれば、彼は「こうあってほしい」「このように物事が動いてほしい」という「夢」または「ビジョン」と言い換えてもよいものをしっかりと持っているということである。人が年老いて、何もかも以前とは異なる状況に陥ってしまったとしても、内側にある希望や夢は決してついえることはない。いっそそれがなくなってしまえば、失望を感じることも喪失感に打ちのめされることもないだろう。だが、人が人として、神の息を吹き込まれた存在としてこの地で生きている限り、人は幻や夢と無縁ではあり得ない。すると次の御言葉もまた真実といえよう。
「これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある」(旧約聖書・ゼカリヤ14:7)
そんな父親に向き合う一人娘の女性もまた、自分の人生に夢を抱き、そしてこれがラストチャンスだろうという機会をしっかりとつかもうとしている。その間でこの親子は激しく葛藤することになる。物悲しく、そして「ああ、そうだったのか」と親子の全貌が明らかになり映画は終わる。
しかし観終わった後、なぜか心の中に「かすかに吹きぬける爽やかな風」を感じることができた。それはおそらく、どんな状況に陥っても決して奪い去ることのできない人としての尊厳が、演者(ホプキンス)と鑑賞者(私たち)との間で響き合うからなのだろう。人として夢を見る力、夕暮れ時に光を感じることができる私たち人間の性質、それらが天地の創造主から与えられていることをあらためて感じさせられた。
そう、やはり今年の主演男優賞は、アンソニー・ホプキンスだったのだ!
■ 映画「ファーザー」予告編
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