「え? キリスト教ネット新聞でヤクザ映画?」と思われた人、ちょっと待ってもらいたい。ヤクザ映画とは、単にヤクザを英雄視する映画ではない。その底流にあるのは、正せない世の不条理感を、観客に代わって正してくれる「義賊的ヒーロー」への憧れである。本来正しくあるべき人間(作中では警察や政治家、国家権力など)が裏で悪いことをしており、その事実を許せないと感じた主人公(たち)が、彼らを成敗しようとする(しかし成功せず、主人公が窮地に陥り、命を落とすというオチがほとんどだが・・・)。ここにピカレスクロマンの醍醐味(だいごみ)がある。私が子どもの頃大好きだった「必殺シリーズ」や漫画『ブラック・エンジェルズ』などもこれに当てはまるだろう。
しかし2020年代の現在は、「仁義なき戦い」「極道の妻たち」がスクリーンをにぎわせた昭和から平成初期とは違い、むしろリアリティー路線でヤクザを描き直そうとする作風が潮流になりつつある。そうした中、この1月から2月にかけて、奇しくも同じ題材を扱った「ヤクザ映画」が公開される。
一つは、「新聞記者」で2019年の日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した藤井道人監督の最新作「ヤクザと家族 The Family」である。すでに1月29日から公開が始まっており、綾野剛と舘ひろしが、血のつながりのないヤクザの親子を演じている。1999年、2005年、2019年という3つの時代を明確に切り分け、各々の時代におけるヤクザの社会での立ち位置を描いている。綾野剛が高校生からムショ帰りの初老期までを一人で熱演する姿は見物である。
1999年のパートでは、潤沢な資金を思うように使うヤクザの姿が描かれている。主人公・山本賢治(綾野剛)がひょんなことからヤクザの親分を助け、それを機にヤクザとして生きる決意をするまでが描かれる。まさに東映ヤクザ映画を彷彿(ほうふつ)とさせるシーンの連続である。
続いて2005年のパート。ここでは組の幹部にまで順調にのし上がった山本の全盛期が描かれる。だが、ところどころにほころびが見え始めるという描写が挿入されており、その後の展開が決して安泰ではないことを観る側は感じ取らざるを得ない。山本が若頭をかばって刑務所に入る展開など、まさに「ヤクザ映画の真骨頂」といえる。
しかし、この次の2019年のパートから、がらりと作風が変わる。というか、それまでのストーリーは、このパートのための長い「前振り」であったようにも思われる。スクリーンサイズも、それまでの迫力あるシネスコサイズからいきなりビスタサイズとなり、閉塞感を高める演出がなされている。刑期を終えた山本が社会に出てくると、かつての栄耀栄華がすでに過去のものとなっている現実を突き付けられる。ヤクザは法的な締め付けと日本経済の停滞によって、完全に社会的認知が失われてしまっていたのである。
例えば、組を辞めてからの5年間は、銀行借り入れはもとより、通帳を作ることも携帯電話を公的に持つこともできない。それは本人のみならず、家族にまで影響を与える。ヤクザの妻はパートにも就けず、子どもたちは保育園や幼稚園にも通えない。劇中「生きる権利を奪っているのはそっち(国家権力)だろうが」というセリフがあるが、いつしか彼らは「時代の寵児(ちょうじ)」から転落していたのだ。フィクショナルな映画の世界でさえ、人々にカタルシスを与える「義賊」的な存在から、完全に除け者扱いされてしまっているのである。落ちぶれたうら寂しい山本の姿に、かつてヤクザ映画に熱を上げていた昭和から平成にかけての映画ファンは愕然(がくぜん)とさせられるだろう。自らのアバターとして、世の不条理に敢然と立ち向かう菅原文太や高倉健、(私の時代では)陣内孝則の姿は見る影もない。
そんな令和時代のヤクザを真正面から描き、社会派ドラマとして私たちに突き付けるもう一つの作品がある。それが役所広司主演の「すばらしき世界」(2月11日公開)である。監督は西川美和。「蛇イチゴ」「ゆれる」「永い言い訳」など、善と悪の境界線を曖昧にし、どちらとも取れるラストシーンに観客をあえて置いてきぼりにする作風は、多くのファンを獲得している。本作は佐木隆三の長編小説『身分帳』を原作とし、実在の人物をモデルにした人間ドラマだが、主人公・三上(役所広司)は元ヤクザ(元殺人犯)であり、これもまた一種のヤクザ映画である。三上は長年の刑期を終え、社会に「復帰」する。「今度ばかりは堅気ぞ」と誓う三上だったが、やはり社会がそれを許さない(ように本人には思える)。
本作の監督が西川美和であることの意味は、ラストシーンにあるように思う。主人公がどうなるかは、ぜひご自分の目で確かめ、体感していただきたい。私は「苦いコーヒーにほのかな甘い匂いが混在する」ような余韻を感じた。狂言回し的存在としてカメラマンの津乃田(仲野太賀)が登場し、主人公の「第二の人生」を私たちにレポートしてくれる展開で物語は進む。その中で出会うさまざまな人間模様。そして本作のタイトルにもなっている「すばらしき世界」という意味が私たちに伝えられるとき、やはりここでも「義賊的ヒーロー」の存在意義が令和時代になって大きく変わってきていることを実感させられる。
同時期公開となる二作に共通しているのは、異質なものに対する現代日本の怜悧(れいり)な態度への疑問と警鐘を投げ掛けている点だ。確かにヤクザはイヤだ。「反社会的勢力」として、私もできることなら関わりたくない。せいぜいフィクショナルな世界で今をときめく俳優たちに自らを重ね、自身が抱く不条理感を彼らの刀や銃を通して払拭する程度でとどめておきたいものだ。しかし同時に、「建前としての義」が大上段から振りかざされる社会は、実態として「本音としての排除」が冷徹に遂行される世界になりつつあるという危険性もしっかりと認識しておくべきだろう。
イエスが生きていた2千年前のユダヤ社会も、令和時代の日本社会も、この点は同じように思われる。律法の本質を「律法主義」によって骨抜きにし、「清い生活」を守るために「汚れた存在」から距離を置く「選民思想」は、現代日本で「見たいものだけを見て、見たくないものは排除する」ありさまに重なってはこないだろうか。
もちろん、イエスはヤクザではない。しかし当時の律法学者やパリサイ人たちによって、現代にも通じる「本音としての排除」の論理から十字架刑へといざなわれたことは否定できない。
東映ヤクザ映画のヒーローたちが「義賊」としてスクリーン狭しと活躍することで、観客にカタルシスを与えたように、イエスもまた2千年前の不条理や被支配層の鬱積(うっせき)とした思いを一身に背負い、聖書の中で所狭しとメッセージを訴え続けている。
彼自身、己の立場をしっかりと分かっていたのだろう。だからこんな言葉が弟子たちの筆を通して残されているのだ。
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(マタイ9:13)
今回取り上げた二作は、義の在り方を人間が自己都合で肥大化させ、排除の論理にすり替えてはいないか、と批判している点で一見の価値ありである。これは聖書の世界観にも通じるものであろう。そういう意味で「クリスチャンなのにヤクザ映画が好きなの?」と後ろ指を指されることを恐れていた親父世代のクリスチャン諸君にこそ、ぜひ観てもらいたい。またぜひ、元ヤクザの牧師先生たちにも感想を伺いたい。
■ 映画「ヤクザと家族 The Family」公式サイト
■ 映画「すばらしき世界」公式サイト
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