1866年。ロシアの文豪ドストエフスキーは、雑誌「ロシア報知」に犯罪者の心理を述べたサスペンスを連載した。これが『罪と罰』であるが、作者がこの中に信仰篤(あつ)く、天使のように清純な女性ソーニャを配することにより、この作品はサスペンスを超えて、キリスト教文学の金字塔となった。
ドストエフスキーの生涯
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーは1821年10月30日、モスクワのマリインスカヤ救済病院の官舎で生まれた。父のミハイルは救済病院に勤める軍医、母マリヤはモスクワの裕福な商家の出だった。38年、17歳のフョードルは陸軍学校に入る。翌年の夏、父は虐待を続けてきた農奴たちに惨殺される。フョードルは陸軍学校卒業後、工兵局製図班に勤めるが仕事が合わず退官する。45年24歳の時、デビュー作『貧しき人々』が「ペテルブルグ文集」の編集長ネクラーソフの目に留まり、一躍文壇に躍り出た。しかし、次の作品『分身』は不評で、交際下手な性格がサロンの嘲笑を買うなどつらい日々が続いた。
その後、空想的社会主義者の集まりである「ペトラシェフスキー会」に所属するが、49年会員たちと共に逮捕され、銃殺刑に処せられる寸前で恩赦が下りた。その後、4年間のシベリア服役が申し渡される。オムスクの監獄の中で他の囚人と共に生活し、飢え、虐待、胃痛、リウマチなどに苦しめられた。
4年間の服役を終えたドストエフスキーは、マリヤ・イサーエワという役人の妻に恋し、57年に結婚する。61年、兄ミハイルと共同で雑誌「時代」を創刊し、人道主義的な傾向が強い『虐げられた人々』やシベリヤ流刑の体験をつづった『死の家の記録』を発表した。64年には新たな雑誌「世紀」を創刊。『地下室の手記』を連載。この年の4月に妻マリヤが、7月には兄ミハイルが死す。さらに12月、親友で編集協力者アポロン・グリゴーリエフも亡くなった。翌年9月に『罪と罰』の構想浮かぶ。66年1月から、『罪と罰』を「ロシア報知」に連載。名声が高まり原稿依頼が続く。アンナ・スニートキナという速記者を雇い『賭博者』を完成。彼女との間に共感と愛が芽生え、やがて結婚した。家庭は幸せで文筆も順調。『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などの傑作が生まれた。80年6月、招かれてモスクワの「プーシキン記念祭」の除幕式で講演することになった。この時、会場は感動と熱狂のるつぼと化したといわれている。翌年81年1月28日、ペテルブルグで突然喀血(かっけつ)し、帰らぬ人となった。
あらすじ
苦学生ラスコールニコフは、「非凡な人間には正義のための犯罪も許されている」という信念のもとに金貸しの老婆とその妹リザヴェータを殺害してしまう。これより少し前に、彼は酒場で酔漢マルメラードフと知り合いになるが、この男は「自分は娘のソーニャに売春をさせてその代金をすべて飲んでしまう最低の人間だが、それでも終わりの日にはイエス・キリストが自分を憐(あわ)れんで招いてくださるのだ」と、泣きながら演説する。
大義に基づいた殺人のはずなのに、犯行後ラスコールニコフは恐ろしい苦悩にさいなまれる。別の用件で警察の呼び出しを受けたのに、サインもできないほど動揺し、自宅に帰るや失神してしまう。親友のラズミーヒンはそんな彼を気遣い、医者を呼んで介抱する。そこへ彼の母と妹のドーニヤが訪ねて来るが、2人はラスコールニコフの憔悴(しょうすい)ぶりを見て驚く。ドーニヤはスヴィドリガイロフという男から嫌がらせを受けていたが、今はルージンという金持ちの官吏との結婚が決まっていた。
そんな時、あのマルメラードフは、馬車の前に倒れ込んで胸を踏まれ、瀕死の重傷を負った。彼の妻カチェリーナは娘のソーニャを呼びに行かせる。マルメラードフは駆け付けたソーニャに赦(ゆる)しを乞い、彼女の腕に抱かれて息絶える。居合わせたラスコールニコフはありったけの金を人にやって彼の葬式を出してやるのだった。
その一方で、彼は金貸しの老婆の所に、自分の質草である指輪と時計が入れたままになっていることが不安になり、ラズミーヒンに相談した上で彼の親戚である判事のポルフィーリーの家に行った。判事はラスコールニコフに陳情を文書にして警察に出すよう指示するが、急に彼の論文『犯罪論』に対する興味を口にする。この時、ラスコールニコフは本能的に判事が自分を疑っていることを直感した。彼はソーニャと近づきになっていたので、彼女に会いに行くと、ソーニャは彼に新約聖書の中の一節を読んでくれた。その聖書は、あの金貸しの老婆の妹リザヴェータからもらったものだと聞き、彼の胸に痛みが走った。
陳述書を持って警察を訪ねると、またしてもポルフィーリーは謎めいた言葉を口にする。「犯人は自分のもとから決して去りはしない。彼は本能的にぐるぐると犯行現場を嗅ぎ回り、最後には自分の懐に落ちるのだ」と。その時、署の中で殺人の嫌疑をかけられているニコライが犯行を自供したというニュースが流れ、ラスコールニコフは激しい衝撃を受けた。
一方、ドーニヤの結婚相手のルージンは、卑劣にもソーニャが自分の金を盗んだとの嫌疑をかけ、彼女を警察に突き出そうとする。ラスコールニコフは、彼女のために弁護する。この時、たまたまルージンがこっそりソーニャのポケットに札束を入れるのを見たという人の証言でソーニャの嫌疑は晴れ、ルージンは人々の非難を浴びて退場する。ドーニヤは彼との結婚を破棄する決意をし、自分たち家族にいつも優しい思いやりを寄せてくれるラズミーヒンに引かれるようになっていった。
ソーニャはラスコールニコフの所に礼に来る。その時、突然ラスコールニコフは、彼女に自分の犯行を告白する。するとソーニャは言うのだった。「すぐに行って四辻(よつつじ)に立ってあなたが汚した大地にキスしなさい。それから、全世界に向かって頭を下げ、『私は人を殺しました』と言うのです」と。
判事ポルフィーリーは、ついにラスコールニコフを追い詰めた。彼は言う。「この犯行の性質から言ってニコライは犯人ではない。犯人はあなただ」と。そして、彼に自首を勧め、従えば減刑を考慮しようと約束する。あのスヴィドリガイロフはその後、ドーニヤからピストルを向けられた上、愛していないと告げられ心のよりどころを失う。彼はその足でソーニャを訪ね、遠くに行くからと告げてから「これであなたと、きょうだいとが安楽に暮らせますように」と言って、3千ルーブリの債券を手渡した後、ネヴァ川のほとりで自殺する。
ラスコールニコフは、自首を決意する。そしてソーニャのもとに行くと、彼女はその首に十字架を掛けて送り出すのだった。彼は広場に行くと、ソーニャの言った通り、ひざまずいて大地にキスをし、四方に礼をし、自分は殺人の罪を犯したと告白する。そして、母親と妹ドーニヤに別れを告げ、警察に出頭した。しかしこれは、彼の新生の始まりだった。
見どころ
突然マルメラードフは、片手を前に突き出して立ち上がりながら(略)絶叫しはじめた。「(略)その方はやがてあの日においでになって(略)みんなが裁きを受けてお赦しを受ける、善人も悪人も、賢い人もおとなしい人も・・・。そうしてみんなをすませてから、さてあの方はわれわれに向かってこうおっしゃる。――『おまえたちも出て来い! 酔いどれも出て来い、弱虫も出て来い、恥知らずも出て来い!』(略)すると賢者たちが反対する(略)『主よ、何ゆえに彼らをお入れなさるのです』 するとこうおっしゃる。――『この人たちを入れるのは、賢者どもよ、(略)彼らのただひとりも自分がそれに値するとは思わなかったからだ・・・』 こうおっしゃって、われわれにお手をお伸ばしになる。われわれはすがりついて、・・・泣きだして、・・・そしてすべてを理解するのだ!(略)・・・だれも彼もが理解するのだ(略)・・・主よ、あなたの王国が来ますように!」(第1部、26、27ページ)
突然、彼は娘に気づいた。――臨終の父に別れを告げる番が来るのを、つつましく待っている、しいたげられ、踏みにじられ、けばけばしい衣装を着せられ、恥じ入っている娘に。底知れぬ苦悶(くもん)がその顔に描き出された。「ソーニャ! 私の娘! 許してくれ!」と彼は叫んで、片手を差し伸べようとしたが、その拍子に支えを失って、ソファからうつ伏せにどすんと床へ落ちた。(略)ソーニャは弱々しくあっと叫ぶと、急いで駆け寄って父親を抱き締め、そのまま気を失った。彼は娘の腕に抱かれて死んで行った。(第2部、194ページ)
「ソーニャ、君はよく神様にお祈りをするのかい」と彼はたずねた。ソーニャは黙っていた。彼はそばに立って、返事を待っていた。「もし神様がなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」 急にきらきら輝きはじめた目をちらりと相手へ投げて、彼女は早口に、力をこめてこうささやき、彼の手をぎゅっと握り締めた。(略)それはロシア語訳の新約聖書だった。(略)「これはどこで手に入れたの?」(略)「持って来てくれたのです」(略)「だれが?」「リザヴェータが持って来てくれました」(第4章、341、342ページ)
「その男が私から逃げないのも、ただ逃げ場がないからだけじゃない。心理的に私のそばを逃げないんですな、(略)・・・そうして、しじゅう私のまわりで円を描きながら、だんだん直径をちぢめて行って、とうとう――ばさり! 私の口の中へまっすぐに飛び込む」(第4部、358ページ)
彼女はもう前から、息子の身に何か恐ろしいことが起こっていて、いよいよ彼にとって恐ろしい時が来たのを理解していた。「ロージャ(ラスコールニコフ)、あたしの可愛い初めての子」と彼女は泣きながら言った。「(略)きょうドアを開けてひと目おまえを見たとき、あたしはいよいよ最後の時が来たと思ったの。ね、ロージャ(略)言っておくれ、遠くへ行くの?」「とても遠くです」(第6部、548、549ページ)
彼は突然ソーニャの言葉を思い出したのだ。――『四辻へ行って、人々にお辞儀をして、大地にキスをなさい。だってあなたは大地に対しても罪を犯したんですから。そうして世界じゅうに聞こえるように《私は人殺しだ》とおっしゃい』(略)彼は広場の中央にひざまずいて、大地に頭をすりつけてお辞儀をし、快感と幸福を味わいながらこの汚い大地にキスした。(略)センナヤ広場で二度目に低くお辞儀をしたとき、彼はふと左のほうをふり向いて、五十歩ほどはなれたところにソーニャの姿を認めた。(第6部、559、560ページ)
しかし彼女は幸福だった。自分の幸福がこわくなるほど幸福だった。七年、たった七年!(略)ふたりはふと、この七年を七日と思いそうになった。彼にいたっては、この新しい生活がただで手に入るものではなく、まだまだ高い代価を払ってあがなわねばならず、その生活と引き換えに偉大な今後の功徳を支払う必要があることさえ忘れていた。(エピローグ、582ページ)
■ ドストエフスキー著、池田健太郎訳『罪と罰』(中央公論社『世界の文学<16>』より)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。