文芸批評家の若松英輔氏の「悲しみの人イエス」と題したトークイベントが2日、神奈川県藤沢市の湘南蔦屋書店で開かれた。昨年『悲しみの秘義』(2015年11月、ナナロク社)や雑誌「中央公論」の連載をまとめた『イエス伝』(同12月、中央公論社)が出版され、その記念イベントとして企画されたもの。
カトリック信徒でもある若松氏は、この2冊は自分の中でコインの表と裏であり、『悲しみの秘義』を書いている中で明らかになってきたのがイエスという人物だったと述べ、2冊の本の間にあるもの、本の中で書けなかったものについて話したい、と述べた。
そして、本を書くということは「何を自分が書き得なかったか」を確かめていく過程であり、読者が読むことで「私が書き得なかったこと」を見つけてほしい、「本は書き手が完成するものではなく、読まれることによって完成するものであり、書き手は読み手の反応に驚いてまた書いていくものだと思います」と述べた。
この日のトークは、参加者に福音書の抜き書きが渡され、若松氏が朗読しながらそれについて語っていくという“トークエッセイ”とも言うべき形式で行われた。
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福音書について
若松氏はまず福音書について語った。新約聖書はイエスの評伝ではない。四つの福音書があるが、これは四つの異なる意見をどうしても伝えておかなければならなかったということに意味がある。人間はあるものを完全に見ることができない、自分と異なる意見が間違っているということには絶対ならないということを福音書そのものが教えてくれている。皆さんもご自身にあったイエスの姿をつむいでいってほしいと述べた。
長血を患った女
イエスのことを聞いた彼女は、群衆に交じり、後ろのほうからイエスの衣に触れた。イエスの衣にさえ触れるこができれば、救われるに違いないと思っていたからである。
(中略)
「私の衣に触れたのは誰か」と仰せになった。(マルコ福音書5:27~31)※引用はいずれもフランシスコ会訳
なぜイエスは「わたしの服に触れたのは誰か」と尋ねたのだろうか? イエスは神であり、あちこちで奇跡を起こしていたのだから、誰が自分の服に触れたか分からないはずがない。しかし「誰か」と尋ねた。そして長血を患った女は震えながら名乗り出る。福音書がここでわれわれに語っているのは「大いなるものは常に私たちに呼び掛けている。そして、われわれはそれに答えなければならない。しかし、その呼び掛けはわれわれが感じているものだとは限らない」ということではないか。
福音書の物語は、われわれが通常目にしている「言語」で書かれているものは半分にすぎない。言語以上のものを感じなければ、福音書は読めてこない。そうすると、これほど面白い読み物はない。聖書を本当に読み通すことができるのは、キリスト教徒以外の人だと思う。なぜなら、福音書はキリスト教以外の縁のない人に向けて書かれた本だから。
キリスト教の豊かな信仰を持っている人にも豊かに読まれるだろうが、そうでない人によってこそ読まれてくる。長血を患った女性もイエスと縁もゆかりもない普通の女性だった。そういう人にイエスの言葉がどう届いていくかが、福音書の一番面白いところだと思う。
聖書は最初から最後まで読む本ではない。今日、ぱっと開いてそこから読めばいい。そのような読み方をしていたのが、ドストエフスキーだった。
ヨハネ福音書11:32~37
イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「ああ、何とラザロを愛しておられたことだろうか」と言った。(ヨハネ福音書11:35、36)
ラザロの死を聞いて涙を流したイエスの物語。ここは新約の中で唯一イエスが涙する場面である。なぜイエスは泣いたのだろうか? 『イエス伝』でここをエピグラフとして引用したが、なぜ泣いたのか分からず、連載が終わり本が出版されるまで、1年間ずっとこの箇所のことを考えていた。
イエスは「心に憤りを覚え、張り裂ける思いで、『ラザロをどこに置いたか』とお尋ねになった」と書かれている。ラザロが死んだことを悲しんだのだろうか? しかし、この後ラザロは生き返るのだから、そうではない。なぜイエスは憤ったのだろうか。
それは“人間が不死であること”が人々に伝わっていかないことに対する憤りではないだろうか。「人は不死である」ということがイエスの遺言なのではないだろうか。イエスがここで泣いたのは自分が悲しいからではない。
イエスは聖書の中で何回か悲しんでいるが、自分のことで悲しむことはない。もう一つイエスがわれわれに教えてくれた最も大きいことは「人は自分以外のことにおいて真に悲しみ得るのだ」ということを体現しているのではないだろうか?
山上の垂訓(マタイ福音書5:3~8)
イエスは大勢の人の前では話さない。大上段からたくさんの人にではなく、家に行き、他の人に誰にも聞こえないように一人一人に語り掛ける生涯だった。今日われわれは、高いところから大きな声で力をもって語られる言葉に慣れている。真理は小さな声で語られても真理であるということを、イエスは体現している。
しかし「山上の垂訓」は唯一の例外だった。「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである」。これはどういうことか。貧しい者とは「人は与えられることによって生きている」ことを知る人。自分の努力でなし得ることなどできないということを徹底的に知った人。「生きていくことは自分の努力とは全く別のことであると知る人。そのような人が幸いである」とイエスは言っている。
努力など限られている。努力は自分の人生をつくることを約束しない、努力の限界からこそ人生が始まるような気がする。努力はあなたを裏切らないという人は、よほど幸せな人だと思う。
「悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる」。人は慰めを本当に知るためには、ひとたび悲しんでみないとならない。悲しんだことがない人間は、慰めが何であるか知らない。イエスが語ろうとしているのは、慰められた人間のみが人に慰めを届けることができる、ということ。
悲しみの経験とは、何者かによって慰めを託されるという経験でもある。悲しむことは大変つらいことだが、自分が見知らぬ人に慰めを届けることができるという栄光を背負うことであると、イエスは言っているのではないだろうか。
「柔和な人は幸いである」。柔和とは「心の柔らかい人」、人は忙しくしていると世の中が見えなくなる。最初に見えなくなるのは弱い人。柔和な人とは弱い人や力奪われた人たちがこの世の中にいることが見えてくる、そういう人が地を受け継ぐ、ということではないか。われわれは、力なき者、弱き者、傷ついた者が自分の視線に入ってこなくなったら、気を付けなければならない。
「義に飢え乾くものは幸いであるその人たちは満たされる」。「義に飢え渇く」とは、自分が不完全であることを知るということ。自分が正しいと思うとき、人間は絶対的に誤る。
「憐れみ深い人は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」。憐れみは交わりであり、傷ついた人と傷ついた人が出会う一つの出来事だとイエスは言っている。人から憐れみを受けた人のみが、人に憐れみを届けることができる。弱い人間でなければ人に憐れみを届けることができないというのが、イエスの考える情愛の姿なのではないか。
「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」。「心の清い人」は品行方正な人を意味しない。それは、自分のことを2番にできる人ではないか。それができれば、人は相当心を清くできるのではないか。その人たちが神を見るのだから。
詩編
続いて若松氏は、詩編の中で一番好きな個所として以下を朗読した。
わたしの日々は煙のように消え、 わたしの骨は炉のように燃えています。
わたしの心は日に焼かれた草のように枯れ、 わたしはパンを食べることさえ忘れました。
(中略)
わたしはパンのように灰を食べ、 飲み物に涙を混ぜています。(詩編102)涙のうちに種を蒔く者は、喜びのうちに刈り取る。
種を携え、泣きながら出て行く者は、束を携え、喜びながら帰ってくる。(詩編126)
詩編は「悲しみの中にこそ、朽ちることのない喜びがある」と言っている。ユダヤ教は偶像崇拝が禁止されており、形のあるものを拝んではならないという霊性が徹底されていた。しかし、建前とは別に民衆は「詩編」など自分の心の支えになる言葉を紙に書いて肌身離さず「言葉の護符」として持っていた。本を読んだり書いたりするのは、朽ちることのない言葉の護符を手に入れること。人生で耐え難い出来事があるときに、その護符を握り締め、かみ締めるということなのだと思う。
ルカ福音書19:37~40
イエスは答えて仰せになった、「あなた方に言っておく。もし彼らが黙れば、石が叫ぶであろう。」(ルカ福音書19:40)
「石」とは言葉を奪われた者、それも叫ぶのだということです。言葉を奪われた者、語ることを妨げられている者のことを書くのでなければ、書き手である必要はない。われわれも世の中を見るときに、偉い人がテレビで堂々としゃべっている声を聞いているだけではならない。語ることを奪われた人、石のように生きている人にも叫びがあり、嘆きがあり、呻(うめ)きがある。イエスの耳にも、石の叫ぶ声が高らかに聞こえていたに違いない。
マタイ福音書4:1~4
「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」(マタイ福音書4:4)
人は言葉なくしては生きていくことはできない。人間の肉体がパンを欲するように、われわれの魂は言葉を欲するとイエスは言う。何を食べるのかが肉体を作っているように、どういう言葉に出会うかがわれわれの魂をつくっているに違いない。ここでの「言葉」はわれわれが考える言語というレベルではない。言語など言葉の一断片にしかすぎない。
沈黙からすら大いなるものを感じる。「石の叫び」をイエスは言う。言葉が見えるから世界が見えるというのは錯覚かもしれない。逆に見える世界を小さくしているのかもしれない。
百人隊長の信仰
「主よ、わたしはあなたをわたしの屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の僕は癒されます」(マタイ福音書8:8)
新約聖書の中では、私は一番ここが好きです。百人隊長にとって自分の一番大切な人が耐えがたいほど苦しんでいる。そこにイエスが来て、あなたの大事な人を癒やしてあげようとまで言っている。しかし、百人隊長はただ言葉をくださいと言う。これはすごいことです。
百人隊長は本当にわれわれがイエスから受け継ぐべきものを知っている。病気を癒やすことも大事だが、言葉を受けることのほうが比べようがないほど大きいことを知っていたということを示している。イエスは「あなた方によく言っておく。イスラエルの中でさえこれほどの信仰をみたことがない」と言っている。神の言葉はそれほどにして求めなければならないということが言われている。
これはなかなかできない。自分の病気が治らなくてもイエスよ、私に言葉をください、とは言えるかもしれない。しかし、自分の最も愛する人が苦しむときに「言葉をください」と、果たして言えるだろうか・・・。(続きはこちら>>)
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